謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「ダンス・ダンス・ダンス」書評~①主人公の「自分探し」

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 激しくネタバレしています。ご注意願います。
 
 それでは、本日から「ダンス・ダンス・ダンス」の書評を始めます。

 

よく村上春樹作品の書評で「作品のテーマは『自分探し』である」、という書評がたまにありますが、実際には村上春樹作品では「自分探し」がテーマの作品はそれほど多くないです。「自分探し」に見えるものは、実際には「他者探し(鼠探し、直子探し、奥さん探し・・・)」のことが多いです。村上春樹氏は、「他者を探して理解するためには自分の内面を深く掘って自分を見つめないといけない。」という考えなので、それが自分探しに見えてしまうのです。

なぜ、他者を探すために自分の内面を見つめなければいけないかというと、これは他者を理解するためです。自分の内面を掘り下げて自分を理解することができない人間には、他者の心の奥の深いところを想像して理解することはできません。

 

この小説は村上春樹作品の中の数少ない「自分探し」をテーマとした小説です。正確にいえば「キキ探し」のはずだったのが、いつの間にか「自分探し」になっているという展開です。

「自分探し」といっても、世間一般の普通の意味の「自分探し」とは意味が違います。

 

一般的な意味での「自分探し」とは、以下のようなものです。

世間や仲間の空気などにはじかれないために自分を合わせているうちに、「世間や空気に合わせている、演技している自分」というものが発生し、「皆に合わせている自分は、『本当の自分』じゃない、『偽物の自分』だ」という思いに人はなります。しかし、「偽物の自分」を演じている時間があまりにも長すぎたために、では「本当の自分」とは何かというのが自分でもわからなくなってしまっています。このため、普段の世間や仲間の空気から離れた所に行って、自分を見つめ直すことによって「本当の自分」を探そうとします。これが一般的な意味での「自分探し」です。

 

これに対して、村上春樹作品の主人公は、もともと世間や空気に合わせるつもりがありません。そのため、はじめから確固たる「本当の自分」です。改めて本当の自分を探す必要はありません。そして、主人公が本当の自分であり続けるがゆえに、世間や空気から外れていくのです。

 

しかし、それで生活ができなくなるかというかとそんなことはなく、世間や空気のことなんて気にもしていなさそうにみえるのに、社会の片隅でちゃんと存在して、「文化的雪かき」仕事をして、外から見ると飄々と悠々自適に生きています。これは、世間や空気に必死になって合わせてあくせく生きている人達から見ると非常に腹が立ちます。だから、村上春樹は世間から嫌われ続け、作品は貶められ続け、読者は馬鹿にされ続けるのです。まあ当然のことでしょう。

 

では、この作品における主人公の「自分探し」とは何か?前作の「羊をめぐる冒険」で鼠が死にますが、その際に主人公も心の半分を「異界(想像の世界)」に置いてきてしまいました。もともと、前述((「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」書評②~主人公の孤独)参照)したとおり主人公は「既に半分死の世界に片足を入れている存在」ですが、その半身は想像の世界で生きることができました。異界で主人公は鼠と酒を飲み、遊ぶことができたのです。

 

しかし、その鼠も前作で死に、異界は空っぽの世界になってしまいました。しかし、その空っぽの世界に主人公は自分の半身を置いてきてしまったのです。半身を失い「空っぽ」になってしまった主人公は、自分を取り戻せず現実感を失い、ふわふわとした人生を送ることになります。これが「心の震え」を失うということです。「心の震え」を失った主人公は、真剣に他者を愛することができません。

 

主人公は現実世界にいながら、一方では心の半身は異界にいます。存在が希薄なのです。電話局の彼女が言ったとおり「ただ、一緒にいるとね、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるみたい」な状態です。

 主人公が、「心の震え」を取り戻し、真剣に他者を愛することができるようになるためには、もう一度異界に行き失われた「自分の半身」を取り戻さなくてはいけません。これが、この小説の「自分探し」です。

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