謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「スプートニクの恋人」書評①

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*激しくネタバレしています。「ノルウェイの森」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」への言及があります。

 

 それでは、「スプートニクの恋人」の書評を始めます。

 「ノルウェイの森」書評(「ノルウェイの森」書評⑫~この小説の結末は? 参照)でも触れたように、この小説はすみれが「ノルウェイの森」における主人公の立場になり、「ぼく」が緑の立場に入れ替わる小説です。そして緑の立場である「ぼく」は、地獄巡りをしているすみれを待ち、すみれが現実世界に戻って、電話で「ぼく」に告白してきたのを受け入れます。

 

 この小説の構造は以下のとおりとなります。

1.すみれが、ミュウに恋をする。
2.ミュウが、自分の「過去」をすみれに告白する。
3.すみれが、ミュウに告白する。
4.すみれが「蒸発」する。おそらく、ミュウの半身を取り戻すために、「あちら側」へ行ったのだと思われる。
5.「ぼく」がギリシャへ行く。
6.すみれが見つからないまま、「ぼく」は日本へ戻る。
7.「ぼく」が「ガールフレンド」と別れる。
8.すみれが「あちら側」から戻ってくる。

 

 この小説は「こちら側(現実世界)」の世界と「あちら側(異界)」の世界が存在するファンタジー小説です。「あちら側(異界)」とは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終り」のような世界です。

 

 しかし、この小説は語られていない「欠落部分」が多すぎます。
 第1に、ミュウは「過去」について全てを語っているとは思えません。自分が半身を失った事件についてはすみれの第2の文書で語られていますが、その事件が起こった原因があるはずです。しかし、原因はこの小説では語られることはありません。
 第2に、「ぼく」の予想では、すみれはミュウの半身を取り戻すために「あちら側」へ行きます。しかし「あちら側」で何が起こって、どのようにしてすみれが「あちら側」から戻って来られたのかについては全く語られていません。

 

 このように、この小説は重要で大きな「欠落部分」があります。これを語るならば、この小説は現在の2倍の長さになるでしょう。
 なぜこのように、この小説は語られていない「欠落部分」が多いのか?それは、この小説は「すみれの物語であり、ぼくの物語ではない」と書かれつつ、実際には「ぼく」の物語だからでしょう。だから「ぼく」の視点で見えないものは語られません。

 

 ギリシャの島に行ったとき、夜に僕は音楽に導かれて山の上に向かいます。そして「あちら側」に運ばれそうになりますが、僕は「こちら側(現実世界)」に留まり続けます。

 すみれを見つけ出したいのならば、一緒に「あちら側」へ行く選択枝もあるのに、主人公は「こちら側」に留まりました。これは「あちら側」に行ってしまった人間が「こちら側」に戻るためには、「こちら側」で待っている人間が必要だからです。

 これは「ノルウェイの森」の構図と同じです。「ノルウェイの森」の主人公が現実世界に戻るためには、緑が待ってくれることが必要でした。

 また、すみれにとって「ぼく」は「ばらばらになったような変な気持ち」を薄める「現実的効用みたいの」があります。そして「結局のところ」、「ぼく」は「そこから出ていくことをぼくはほんとうには求め」てはいない「現実的な」人間であるため、「こちら側」に留まります。

 

 すみれは消えてしまって、しばらく戻ってきません。これは「ぼく」にすみれを「待つ準備」ができていなかったからです。「ぼく」がすみれを待つには「ガールフレンド」との関係を清算しなければいけません。

 

 「ぼく」と「ガールフレンド」の関係は、当然ですが「正しくありません」。それは、不倫だからというだけではなく、教師と生徒の母親との関係だからというだけでなく、「ぼく」がこの関係の行き着く先に破滅を求めているからです。「ぼく」はすみれと結ばれることがないことに深く絶望していて、この関係がいずれ露見して自分が破滅することを望んでいます。自分が破滅したいのは勝手ですが、そのことに他人の家庭を巻き込んではいけません。それに自らの破滅を願う人間が、誰かを待ち、また、誰かを現実世界に引き戻すことはできません。

 

 そして、第15章で「にんじん」が出てきます。彼はこの小説の重要な人物です。彼はもちろん、自分の母親と「ぼく」との関係に気が付いています。
 この問題を解決するために、彼は万引きをします。万引きをすることによって「ぼく」に警告を送っていたのです。「にんじん」が「ぼく」と直接対決することは、関係が露見することに繋がり、それは「ぼく」自身が望んでいる(自分の家族を巻き込んだ)破滅に繋がります。そのことによって自分の母親も深く傷つきます。彼女も破滅するかもしれません。「にんじん」は自分が傷つき、罪を背負うことで家族を守ろうとしたのです。

 

 本当は「ぼく」は「にんじん」に「殺され」てもおかしくはありません。それが物理的な展開になるか、象徴的な展開になるかはわかりませんが。殺されても仕方のないことを彼はやっています。彼はすみれを待つ資格はおろか、生きている理由も見失っています。そして「ぼく」は自分の破滅に他人を巻き込むような「悪い」人間です。「にんじん」にとって「ぼく」は、自分の家族を崩壊させる明確な「敵」であり、その必要があれば倒すべき「悪」です。実際に「にんじん」は「ぼく」の返答次第では本当に彼を「殺す」つもりだったと思われます。しかし、「ぼく」の率直な「告白」を受け入れ、「にんじん」は彼を赦します。「にんじん」の「赦し」が「ぼく」を再生させます。

 

 この「ぼく」は「良い人間」ではありません。小説の主人公が無条件で「良い人間」であると考えるのは間違いです。こうした「良くない人間」でも生きていける資格はあるのか、誰かを待つ資格はあるのか、ということが問われている小説だといえます。

 

「最後にひとつ」(中略)「こういうことを言うのは失礼かとも思うんですが、思い切って申し上げまして、先生を見ているとどうも何か釈然としていないところがあるんですよ。若くて背が高くて、感じがよくて、きれいに日焼けして、理路整然としている。おっしゃることもいちいちもっともだ。きっと父兄の受けもいいんでしょうね。でもうまく言えないんですがね、最初にお目にかかったときから何かがわたしの胸にひっかかるんです。うまく呑み込めないものがあるんです。べつに個人的に先生にからんでいるわけじゃないんですよ。だから怒らないで下さいね。ただ気になるんです。いったいなにがひっかかるんだろうってね」

 

 この警備員のせりふの前に「教師としては言わせていただければ、常習的な万引きという行為、とくに子供の場合、犯罪性よりは精神的な微妙な歪みから来ているものであることが多いんです」と「ぼく」は言っていますが、「ぼく」そのものが精神的な「歪み」の原因です。「ぼく」にこんな客観的な解説をする資格はありません。警備員が何かがひっかかるのは当たり前です。

 

 いずれにしても「にんじん」が「僕」と「母親」を赦し、「ぼく」と「ガールフレンド」が別れることによって、「僕」はすみれを待つ資格を得ることになります。「子供」が「親」を赦す、というのがこの小説の隠されたテーマです。小学4年生の子供にそんな役目を背負わせるのはかなりきついことです。「僕」が「にんじんのような子供はこれからどんな日々(永遠に続くかと思える長い成長期)を通り抜け、大人になっていくのだろうとぼくは思った。それはおそらくきついことであるにちがいない」と考えているとおりです。もっとも「きついこと」の原因の1つである「ぼく」が言うことではありませんし、ここで語られる「他人事感」は「ぼく」が歪んだ人間であることを示してます。

 

 すみれを待つ資格を得た「ぼく」のもとに、すみれは帰ってきます。このシーンは「夢」ではないのかという意見もあるようですが、「夢」ではなく「現実」です。この小説はすみれが異界へ行って、あちら側のミュウと邂逅し、別れ、「こちら側」で待つぼくの存在をある意味「現実世界」の目印にして、「こちら側」に戻ってくるという構造になっています。

 

 次回は、この小説で語られなかった「欠落部分」が何であるか想像してみたいと思います。

 

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