謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「1Q84」書評①~「大きな物語」と「小さな物語」

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。『ねじまき鳥クロニクル』への言及があります。

 

  それでは、『1Q84』の書評を始めます。

 

 この小説のタイトルは『1Q84』です。これはもちろん、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したものですが、それとともに、作者の過去作である『ねじまき鳥クロニクル』も意識しているのではないか、と思います。

 その理由ですが、まず『ねじまき鳥クロニクル』も『1Q84』も同じ1984年から物語が始まります。

 次に『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』には共通して牛河という人物が出てきます。牛河を通じて『1Q84』世界と『ねじまき鳥クロニクル』世界は繋がっています。ただし、牛河は『1Q84』では、元弁護士で探偵のような仕事をしていますが、『ねじまき鳥クロニクル』では政治家の秘書をやっており、牛河の職業や環境は全然違います。おそらく、『ねじまき鳥クロニクル』の世界は青豆が最初にいた1984年の世界であり、政治家秘書の方の牛河は1984年の住人なのです。

 

 しかし、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』では物語の構造が大きく違います。

ねじまき鳥クロニクル』は、はじめは猫がいなくなることや、妻の失踪という「小さな物語」から始まって、最後はこの世界の「ねじまき鳥」と「ねじ緩め鳥」との戦いに主人公が巻き込まれていくという「大きな物語」に回収されていきます。満洲やシベリアのエピソードも出てきて、歴史的視点も入ってきます。

 ここでいう「小さな物語」とは、自分と家族や恋人など、自分の周囲の中だけの物語のことを指し、「大きな物語」とは物語世界の謎を解いたり、世界の秩序を回復させたりする等の、世界の根幹を巡る物語を指します。 

 これに対して『1Q84』は、1Q84年という「狂った世界」に主人公の2人が巻き込まれていくという「大きな物語」から始まりますが、『1Q84』の世界の問題はBOOK3の最後では放置され、10歳の時に手を合わせただけの恋人たちが再び出会う「小さな物語」に回収されます。

 

 なぜ、『ねじまき鳥クロニクル』執筆時(1994~5年出版)と、『1Q84』執筆時(2009~10年出版)で、物語の構造が変化したのか?これは作者の世界観や視点が執筆した年代によって変化したためだろうと思われます。

 

1Q84』が、オウム真理教の事件を意識して書かれていることはよく知られています。オウム真理教の事件では、教祖の麻原の作り出した歪んだ「大きな物語」にその信者も巻き込まれ、その物語を共有することで、大きな「悪」がなされました。作者は現代の「悪」を描くときに、「悪」の作り出した「大きな物語」に対抗するためには、「別の物語」を作り出す必要があると考えています。

 

ねじまき鳥クロニクル』執筆時には、「悪」の物語に対して対抗するために、第3部ではその「悪」の物語を内包するような(シナモンの作った)「ねじまき鳥クロニクル」という「さらに大きな物語」を作り出すことで対抗しようとしました。(ただし、『ねじまき鳥クロニクル』第3部は1994年から執筆されているようですので、オウム真理教の事件がどこまで反映されているかは微妙です。)

 

 しかし、『1Q84』BOOK3においては「悪」の作り出す「大きな物語」に対して、別の「大きな物語」で対抗するという考えは変化します。これは、別の「大きな物語」を作るというのは、結局別の宗教を作り出すということになってしまうのではないか?という作者の懸念によるものではないでしょうか。別の「大きな物語」こそが、真実であり善の世界であると規定されてしまうならば、それはまた別の独善や、偽りの真実の世界を生み出すだけなのではないか?それでは問題の解決にならないのではないか?という作者の疑問があったのではないかと思われます。

 

 このため、『1Q84』BOOK3では、対抗する別の「大きな物語」は提示されず、個人と個人の愛の物語、そして子供の誕生(この小説内ではまだ誕生していませんが)という「小さな物語」へと物語は回収されます。歪んだ「大きな物語」に対抗するには、別の「大きな物語」を作るのでは問題は解決せず、個々人の「小さな物語」を守っていくしかないという作者の現状へのメッセージが感じられます。

 

 ちなみに、小説内で言及されている通り1984年と1Q84年は平行世界ではありません。この2つの世界はスイッチのON、OFFと同じで、1984年から1Q84年に世界が切り替わると1984年の世界は消滅し、1Q84年の世界だけになります。逆に1Q84年から1984年(あるいは別の1q84年など)に世界が切り替わると1Q84年の世界は消滅します。

 だから、1984年の青豆が1Q84年の世界に行っても1Q84年の青豆に出会うということはありません。((タクシーの運転手)「『現実というのは常にひとつきりです』」(BOOK1 第1章)、「(さきがけのリーダー)『いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。(中略)1984年はもうどこにも存在しない』」「『言うなれば線路のポイントがそこで切り替えられ、世界は1Q84年に変更された』」(BOOK2 第13章)参照)

 

 このようにこの小説は、天吾と青豆が1Q84年世界から脱出することで、1Q84年の世界がその世界に内包される問題ごと消滅してしまうという展開で物語が終わってしまいます。これはちょっと強引な終わらせ方ではないかと、発表当時から批判や続編の要望などがありましたが、「小さな物語」を個々で紡いでいくというのが作者の現状へのメッセージである場合、残念ながら現時点では続編はないかと思われます。

 

 しかし今後の時代の変化により、独善や偽りの世界に陥る危険を冒しつつも、新たな「大きな物語」を構築しなければならない時が来るかもしれません。その時『1Q84』のBOOK4が語られる可能性があるのかな、とも思います。

 その理由は、天吾の書いた小説の詳細がこの物語の中では明らかにされていないからです。また、BOOK3の最後で青豆は、高速道路から見えるエッソのタイガーの姿が反転していることに気がつきます。これは青豆と天吾が戻ってきた場所が1984年ではなく、第三の世界であることを暗示しており、今後新たな展開が有り得る事を示しています。このように続きの物語が語られる含みを残しつつ、この小説はとりあえずBOOK3で終わります。

 ただ、新たな「大きな物語」が語られる必要がある時というのは、現実世界が「大きな歪んだ物語」に覆われた時なのではないかと思われますので、続編は本当は無い方が良いのかもしれませんが。

 

(補足:1984年から1Q84年に行くタイミングと、二つの月が見えるタイミングについて)

 

 この小説で1984年の元々の住人は青豆と天吾だけだと思われます。青豆は1984年から高速道路の非常階段を通って1Q84年に行き、最後に1Q84年から脱出します。

 その他の登場人物は、基本的には元々1Q84年の住人のはずです。彼らは最初から『さきがけ』の存在を知っています。しかし、天吾に関しては『さきがけ』のリーダーが「『君たち(筆者注:青豆と天吾)は入るべくしてこの世界(筆者注:1Q84年)に足を踏み入れたのだ』」(BOOK2 第11章)、「『君たちは言うなれば、同じ列車でこの世界に運び込まれてきた』」(BOOK2 第13章)と言っていますので、もともと1984年の人間なのだと思われます。

 

 BOOK2 第22章では、天吾はふかえりに「『具体的なポイントはまだ特定できないけどおそらくその前後(筆者注:『空気さなぎ』の書き直しをした前後)から僕はおそらくこの月が二つある世界に入り込んだのだろう。今までそれを見過ごしてきただけだ。夜中に空を見上げることが一度もなかったから、月の数が増えていることに気づかなかった。きっとそうだね?』」と聞いています。これに対して、ふかえりの返事はありません。

 この天吾の推測の前半(月が二つある世界に入り込んだ)は正しく、後半(今までそれを見過ごしてきただけだ。)はおそらく間違っています。二つの月のある1Q84年の世界に入り込んでも、二つの月が見えるとは限りません。天吾が二つの月が見えるようになるには、別のきっかけがあったはずです。

 

 それでは、天吾が1Q84年に足を踏み入れたのかタイミングはいつなのでしょうか?

 天吾は二股尾で戎野から話をされた時に、『さきがけ』という「名前には聞き覚えがある」にも関わらず、「どこでそれを耳にしたか思い出せ」ず、「記憶をたどることができ」ません。『あけぼの』についても「記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがな」く、「なぜかその詳細を思い出すことができ」ません。(BOOK1 第10章)

 

 仮説ですが、上記のようなことが天吾に起こったのは、中央線に乗る前の天吾は1984年の住人で、ふかえりに二俣尾へ手を引かれて連れて行かれることによって1Q84年世界に連れてこられたのだ、ということが考えられます。

 けれども、1984年の住人の天吾は本当は『さきがけ』も『あけぼの』も知らないはずです。これは、中央線で手を握った時にふかえりが天吾に、『さきがけ』も『あけぼの』の存在を初めから知っているかのような暗示をかけたということなのでしょうかね。しかし、そもそもふかえりに暗示をかける能力があるのか?という話になりますが、天吾が1Q84年に入り込むタイミングがこの時点以外には考えれらません。

 

 前述したように1Q84年の世界の住人になったからといって、この小説の登場人物たちは最初から月が二つ見えている訳ではありません。作中でもリーダーが「『しかしここにいるすべての人に二つの月が見えるわけではない』」(BOOK2 第13章)と言っています。『空気さなぎ』には、自分の「『ドウタが目覚めたときには、空の月が二つになる』」と書かれています。(BOOK2 第19章)自分のドウタが目覚めていない人間は1Q84年の世界の住人であっても二つの月が見えません。

 

 登場人物たちが二つの月が見えるようになるきっかけは以下のようだと考えられます。

 

 天吾は、雷の夜にふかえりと交わった後に2つの月が見えるようになります。(BOOK2 第18章)

 牛河は、ふかえりにファインダーを通して見つめられた後に見えるようになったと思われます。(BOOK3 第16章)

 青豆は、BOOK1第15章のあゆみが青豆のアパートに泊まりに来た時が、二つの月を見た最初です。

 しかし、見る機会が無かっただけで非常階段を降りて1Q84年に最初に来た時から実際には見えているのではないかとも思われます。ただ、それだと青豆が1Q84年に来てから何日も経っているのに月が二つあるのに気が付かなかったことになります。これはちょっと不自然かもしれませんね。とすると、あゆみが泊まりに来たことが環のことを思い出させ、それが彼女のドウタを目覚めさせた?うーん、これもなんか弱い感じがします。どちらが正解かはちょっとよくわかりません、微妙ですね。

 

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