謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

短編集「女のいない男たち」感想 目次

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

☆☆短編集「女のいない男たち」感想 目次☆☆

☆「ドライブ・マイ・カー」の続きを勝手に想像してみる

☆「イエスタデイ」感想

☆「独立器官」感想 

☆「シェエラザード」感想

☆「木野」感想

☆「女のいない男たち」感想

「女のいない男たち」感想

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 村上春樹『女のいない男たち』所収の表題作「女のいない男たち」を読了しました。

 この小説は書き下ろし作品なので、ちょっと期待していたのですが「うーん」という感じですね。ただ、他の作品の感想は書いてこれだけ書いてないのもちょっと居心地が悪いので、読んで思った疑問とその謎解きについて書いてみます。

 まず、第一の疑問として、エムの夫と名乗る男は何者で、なぜわざわざ「僕」の所に電話をかけてきたのでしょうか?

 第二の疑問として、「僕」とエムは14歳の時に出会ったのか?ということです。「実際にはそうじゃない」と書かれているので、この出会いはフィクションなのでしょうか。しかし、「たぶん(僕にはあくまで想像するしかないのだが)彼女は自分が、中学校の教室で、僕に消しゴムの半分を与えたことを告げたのではないだろうか」とも書いてあり、一体どっちやねん、という感じです。

 この第二の疑問から考えてみますと、おそらくこの小説世界の中では「あったかもしれない可能性の世界」が平行して存在するのでしょう。つまり、「僕」とエムは14歳の時に出会ってはいないAという世界(これが語り手である「僕」の世界です)と、「僕」とエムは14歳の時に出会ったというBという世界があります。Aの世界の「僕」はBの世界の「僕」に嫉妬します。エムの夫と名乗る男が、Aの世界の「僕」が14歳のエムに出会っていると考えたのは別の世界の「僕」と勘違いしたのです。というか、これはAの世界の「僕」のただの想像でしたね。

 第一の疑問に戻ります。この小説世界の中では「あったかもしれない可能性の世界」が平行して存在します。それでは、電話をかけてきたエムの夫と名乗る男は何者なのでしょうか。彼はおそらく「僕」がエムと別れることなくその後彼女と結婚して夫となったという可能性の世界Cの「僕」です。Cの世界の「僕」がAの世界の「僕」に電話をかけて、彼女の自死を告げたのではないでしょうか。

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「シェエラザード」感想

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 村上春樹『女のいない男たち』(文藝春秋)所収「シェエラザード」を読了しました。

 この小説は何か色々想像するとちょっと怖い小説ですね。様々な解釈が可能かと思いますが、以下のような解釈を考えてみました。(ちょっと突飛で、おそらく一般的な解釈とは違うかもしれませんが、まあこういう解釈もありますよということで。)

 この小説を読んで思ったのは、羽原はシェエラザードが話していた、昔彼女が空き巣に入った「同じクラスの男の子」であり、また現在の「夫」でもあるのではないかという事です。(彼女は彼の4歳年上と言っていますが、彼女の語ったプロフィールはほとんど出鱈目だと思われます。)そして、羽原は記憶を失っており(彼が覚えているのは自分の名前だけです)、シェエラザードは羽原が記憶を取り戻すように昔の話などを色々話しているのではないでしょうか。(しかし、後述するように彼女は彼の記憶が戻ることを本当は望んでいませんので、嘘の話も入り交えているかもしれません。)

 この「ハウス」に彼が閉じ込められているのは、記憶を失うようなショッキングな出来事と関係しているのでしょう。しかし閉じ込められているといっても、特に外から鍵をかけられているとか、見張りがいて監禁されているという訳ではなさそうです。記憶を失った羽原は、他に行くあてもないので「ハウス」にいてシェエラザードを待つしかないのでしょう。

 シェエラザードが彼の家に空き巣に入ったときに見つけたものは、鉛筆やバッジやTシャツだけではないでしょう。おそらく彼ら家族の「秘密」であるものを知ってか知らずか持って帰ってしまったのだと思われます。「でも私は彼の翳りを知っている」というのは何と言いますか、ポルノ雑誌程度では大げさなんじゃないでしょうか。「翳り」というならもっと後ろ暗そうなものを想像してしまいます。 

 彼の母親は、空き巣に入っていたのが彼女であることを知っていたのではないかと思います。おそらく最後に彼女が家を訪れてドアの錠前が新しいものに取り替えられているのを見て去った時に、母親はどこからか(家の中から?)彼女を見張っていたのでしょう。しかし、母親は事を荒立てず知らない振りをすることを選びます。仮に彼女が彼ら家族の「秘密」を知っており、その「秘密」を暴露されては困るからです。そして彼女は、その後彼と接触しようとしませんでしたので、母親としてはひと安心でした。

 ところが、4年後彼女は彼と再会します。この再会は偶然だったのかもしれませんが、彼の母親としては何らかの意図を持って彼女が近づいたに違いないと確信します。そして、色々あった後で、彼と彼女を結婚させ、「家族」として取り込むことによって、彼女が家族の「秘密」をばらさないように母親は仕向けたのではないでしょうか。

 ここまで書いて「その『秘密』とは何だ?」という質問があるかと思いますが、この短編の中ではちょっと分からないですね。色々想像する事は可能ですが、小説の記述の裏付けがないので、「これだ」と特定することはできません。まあ、多分「ちょっとした怪談みたいなものも絡んでいる」ものだと思われますが。

 そして月日が経ち、彼が一連の「秘密」(家族の「秘密」及びこの結婚が仕組まれたものであるという事)を知り、ショックを受け記憶をなくし失踪します。記憶をなくした彼を彼女は探し出し、彼は「ハウス」に軟禁されることになります。そして、ここからこの話は始まります。

 彼女は、羽原の記憶を取り戻させるために「ハウス」に来てはいるのですが、本当は彼の記憶が戻ることを望んではいません。彼女を「ハウス」に向かわせ、彼の世話を命じているのは彼の母親です。母親はこの家の「権力者」なのです。
 
千夜一夜物語』のシェエラザードは千と一夜、物語を語った後、王に殺される事なく正妻として迎えられ大団円となりますが、この小説のシェエラザードは物語を語りつくしてしまう(=彼の記憶がよみがえる)と破局が待っています。彼女は「物語」を小出しにして彼の気持ちを引き留め、今の「ハウス」の2人の生活が少しでも長く引き伸ばされることを祈ります。「物語」の中では彼女は十七歳の、彼と初めて会った時の少女に戻ることもできます。(彼女はその時初めて彼の名を呼びます。)
 しかし、間違いなくいつか彼の記憶がよみがえり、破局に至る日が来ることを彼女は知っています。

 

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「独立器官」感想

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 文藝春秋2014年3月号に掲載された、村上春樹「独立器官」の感想を以下に書きました。 

 ☆        ☆        ☆        ☆        ☆ 

 この小説は書いてあることを額面通り信じるならば、奇妙ではあるが「謎」のない話です。だから、今回感想はスルーしようかと思ったのですが、それではつまらないので記述を額面通りには信じない別の解釈を考えてみました。

 この小説の主人公は渡会(とかい)という美容整形外科医ですが、その主人公について、前半は語り手である作家の谷村の視点により語られ、後半は主人公のクリニックに勤める秘書の青年の告白によって語られます。

 前半の部分は、作家の中立的・客観的な描写なので事実と考えてよいでしょう。しかし、後半の青年の語りはどうか?彼の言っていることが真実なのかは不明です。

 ゲイの青年であるとあらかじめ説明されているこの男性が、渡会に好意を寄せていることは、彼の告白を聞いていても明らかです。しかし、おそらくその想いを渡会に打ち明けることはなかったでしょうし、渡会も青年の気持ちを薄々知りつつも特にそれには触れずに彼を雇い続けます。

 青年は渡会のプライベートな恋人達とのスケジュールの調整もしていましたが、特に彼女達に嫉妬することはありませんでした。それが軽い関係であることを理解していたからです。

 しかし、渡会がある人妻に今までとは違った「本気の恋」をした時、彼はその人妻に嫉妬することになったのではないかと思われます。

 嫉妬にかられた彼の告白は、決して中立的で客観的なものでは有り得ませんし、彼の告白には色々嘘が混ざっていると思われます。

 そして、彼の告白が嘘であろうことは、この小説のいくつかの描写でわかります。

 まず、冒頭でわざわざ「つまり僕が言いたいのは、まったく純粋な客観的事実だけでこのポートレイトが出来上がっているわけではないということだ」等、この小説の描写が全く客観的な事実とは限らないことがくどい程、作家谷村によって強調されます。一見余計なこれらの記述は何を暗示しているのでしょうか?

 次に「独立器官」の描写です。「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている」というのが渡会の意見なのですが、この描写そのものが作者(作中の谷村ではなく、村上春樹)のミスリードなのではないのでしょうか?女性は嘘をつく独立器官を持っている、では男性は?男性も、もちろん独立器官を持っているのです。これは「女性」というのを強調することで、青年の「嘘」から読者の目を逸らせようという記述なのです。下に追記があります。)

 最後にスカッシュ・ラケットは本当に渡会の意思で谷村に贈られたものなのでしょうか?「『先生は最期に近くなって、唐突に一時的に意識を取り戻されたみたいに、必要なことをいくつか私に言い残しました』」と青年は言っていますが、今まで(意識があるのかどうかわからないくらい)瀕死だった病人が、急に一時的に意識が明瞭になるのは不自然です。いや、現実世界では珍しくはあるが有り得ないことではない事象かもしれませんが、小説での記述は何か不自然な現象であるかのようにわざわざ描写されています。

 つまり、渡会がスカッシュ・ラケットを谷村に贈ってほしいと言ったのは青年の嘘で、作家の谷村と会うための口実です。

 なぜ、青年は谷村に口実を作ってまで会いに行ったのか?これは、「渡会の最期」を作家に告白し、それを小説に書いて世間に発表してもらうことによって、彼の語った告白を「事実」として認定してもらうためです。こうして、作家谷村によって青年の嘘は「真実」にまで高められるのです。

 スカッシュ・ラケットが谷村には少し軽すぎて合わずほとんど使ってないことも、渡会が谷村に贈ろうと思って贈った物ではないことを暗示しています。まあ、青年は渡会が予約通販で注文したものだ(つまり初め渡会自身が使おうとしていたものなので、谷村に合わなくても仕方がない)という言い訳をしていますが。

 青年の告白のどこが事実でどこが嘘なのか、この短い小説ではわかりません。渡会とその人妻の別離に青年はどの程度関わっているのか?あるいは渡会の死自体に青年はどのように関わっているのか?この小説では詳細は不明ですが、おそらく青年が「能動的」に関わっていることは確かです。

 つまり、タイトルの「(嘘をつく)独立器官」とは後藤青年を指しているのだと思われます。

 

(*追記)

 補足です。「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている」についてですが、じゃあ渡会の過去のトラブルの実例は、と見ていくと、「いささか注意力の不足した女性」や「判断能力にいささかの混乱をきたした人妻」がいる一方、男性である渡会は「こういうことになると意外に機転が利」き、(注意力の不足した女性の)疑り深い恋人が疑問を呈してきても「彼の有能な秘書(後藤青年)が言葉巧みに処理」しているのです。なんか言っていることと全然違うやんか、て感じですね。

 

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「木野」感想

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 遅ればせながら、文藝春秋2014年2月号に掲載された、村上春樹「木野」の感想を以下に書きました。しかし、今回のタイトルはビートルズの曲名シリーズではないんですね・・・・・・。


「木野」は中途半端な「デタッチメント」の罪を書いた作品です。
 木野という主人公は、目の前で妻と同僚の浮気現場を見ても、特に怒る等の感情を爆発させることもなくそのまま扉を閉じて家を出ていくような、他者に対し無感動な人間です。彼は会社を退職し「木野」というバーを開きます。

 客の神田(カミタ)という男は、名前の通り神です。彼はこの店の守護神(柳の木)として現れ、やがて「呪われた」木野に遠くへ逃げることを命じます。
  猫は「デタッチメント」の居心地の良さの象徴です。そして、「デタッチメント」の居心地の良さを求めて、木野の店は少しずつ客が入るようになります。

 しかし、この居心地の良い空間は、木野がいわくありげな客の女性と寝ることで崩壊へ向かいます。もちろん、彼は彼女と寝るべきではありませんでした。「デタッチメント」を貫き本当に他人に無関心である人間は、いわくがありそうな女性と寝たりはしません。しかし実際には、木野は他人に対して完全な無関心を貫くことはできません。かといって、彼はそれ以上彼女と関わろうとする訳でもありません。結局、他人に対して完全に無関心でいられる訳でもなく、しかし他人と積極的に関わろうとする訳でもなく彼は中途半端なのです。

 秋が来て猫は去り、蛇たちが姿を見せます。蛇は木野が呼び寄せた「呪い」です。木野は猫を探すことはなく、そして猫のために設けておいた出入り口を板を打ちつけて塞いでしまいます。「居心地の良い場所」は失われました。

 神であるカミタは木野に対して、次の長い雨が降り出す前に蛇の呪いから逃れるために店を離れて遠くへ逃げることを命じます。次の長い雨が降り出す時とは、女が一人で店にやって来る時です。
 しかし、逃避行の孤独は木野を押しつぶします。カミタに固く禁じられていたにも関わらず、彼は伯母への絵葉書に文章を書いてしまいます。そうしないと自分は「どこにもいない男」になってしまうと思ったからです。
 木野の罪とは、「傷つくべきときに十分に傷付かなかった」こと、「真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続ける」ようになったことです。

 他人に対して心を動かさないことによって、本来は自分が持っているはずの嫉妬や恨み等の不快な感情を回避して「デタッチメント」という居心地の良い場所を求めたものの、自分の感情と向き合うことを避けたがために、木野は自分の心を空虚なものにしてしまいました。その空虚な心は、蛇の呪いを呼び込みました。他人に対して無関心を貫ければ、呪いから逃げ切ることはできますが、結局人間である以上、他人に対して無関心を貫くというのは無理な話です。このため、呪いは彼に追いつきます。

 最後に、木野は自分がとても深く傷ついていることを自覚し、感情を取り戻します。彼は自分を取り戻し、自分自身の呪いと対決することができるのでしょうか?

 

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「イエスタデイ」感想

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。「ノルウェイの森」へのネタバレ言及があります。

 

文藝春秋2014年1月号に掲載された、村上春樹「イエスタデイ」を読了しました。

 

 喫茶店でアルバイトをしている早稲田大学2年生の「僕」は、同じアルバイトをしている木樽(きたる)という浪人生と知り合います。彼は田園調布出身であるにも関わらず、阪神タイガースのファンだから、という理由で大阪にホームステイして関西弁を習得し、いつも関西弁で話をするような変わった人物です。「僕」は彼の家に行った時に、風呂場で「イエスタデイ」の関西弁のかえ歌を披露されたりします。逆に「僕」は芦屋の出身でしたが、東京に来てからは関西弁を使わなくなります。

 

 彼には、おさななじみの恋人がいました。彼女は現役で上智大学に入学しています。彼らは木樽が大学に入るまで男女としての交際は控えています。週に一度程度2人は「面会」をしますが、軽いキスはするけれどもそれ以上は進まないようにしています。

 

 木樽は「僕」に「おれの彼女とつきおうてみる気はないか」と言います。そして、「僕」は木樽とその彼女(栗谷えりか)の3人で会うことになりますが・・・。

 

 感想(ネタバレしています)ですが、この小説の3人(「僕」、木樽、栗谷えりか)から「ノルウェイの森」の3人(「僕(ワタナベ)」、キズキ、直子)を連想する人は多いのではないでしょうか。しかし、この小説の2人は自殺することもなく「16年後」を迎えます。「僕」は友だちの彼女とつきあうこともありません。おさななじみの2人は別れ、結ばれることはありませんでした。

 

 この小説は「ノルウェイの森」の「あったかもしれない結末」を描いているのだと思われます。アドベンチャーゲームに例えるならば、バッドエンドになりそうな選択肢をプレイヤーが回避し続けることによって、何の事件も発生しないエンドにたどり着くようなものです。木樽とえりかは、2人の関係の未来は袋小路で出口はないことを予感しています。このため、木樽は状況を打開しようと、2人の関係に「僕」を巻き込もうとしますが、「僕」はえりかと1度会っただけでその後は会いません。2人の関係に割り込むことに危険を感じ回避します。えりかはテニス同好会の先輩と付き合い、木樽は大学受験をあきらめて、アルバイトを突然辞めて大阪の調理学校に入り、2人は破局します。これは2人共、未来に訪れるであろう破滅を予感し、それを回避すべく行動を選択しているのです。

 

 その後「僕」は大学卒業後に出版社に就職し、3年後にそこを辞めて、ものを書く仕事をしています。27歳の時に結婚しました。えりかはテニス部の先輩とは別れ、卒業後広告代理店の仕事をしています。そして木樽はデンバーで鮨職人をしています。2人ともまだ独身ですが、おそらく未来に結ばれる可能性はないのだと思います。

 

 結局、3人には何も劇的な事は起こりません。ものすごく幸福な結末とはいえないかもしれませんが、とりあえず3人とも死なずに生き延びて、日々を過ごしています。何と言う事もない終わり方ですが、「ノルウェイの森」の結末を考えると、印象深く余韻の残る結末です。

 

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「ドライブ・マイ・カー」の続きを勝手に想像してみる

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 遅ればせながら、文藝春秋2013年12月号に掲載された、村上春樹「ドライブ・マイ・カー」を読了しました。

 それでは、あらすじの紹介も兼ねて感想を述べます。(結末までネタバレですので、ご注意願います。)

 この小説の主人公の家福は俳優です。年は59歳あたり、俳優といっても二枚目というわけではなく「性格俳優」として癖のある脇役をすることが多い役柄です。彼は週に6日、自分で車を運転して舞台に向かっていました。しかし、車で酒気帯びで接触事故を起こし、免許が停止になります。その時の検査で緑内障の兆候が発見され、彼は事務所から車の運転をすることを止められます。このため、彼は運転手をしばらくの間雇うことになりました。知り合いから、渡利みさきという20代半ばの女性の運転手を勧められ、家福は彼女を雇うことになります。

 みさきが運転手を務めるようになって以来、家福はなぜか10年近く前に亡くなった妻のことを頻繁に思い出すようになります。彼女は正統的な美人女優でした。彼と妻は生活のパートナーとして良好な関係を保っていましたが、彼女は時折、彼以外の男と寝ていました。彼は、彼女がほかの男に抱かれている事を知っていました。どうして、彼女が他の男たちと寝なくてはならなかったのか?この謎がこの小説のテーマとなる訳ですが、この答えは意外とすぐにあっさりと出てきます。


 
 24年前に、家福には3日だけ生きた子供がいました。生まれてすぐに病院の保育室で亡くなったのです。心臓の弁に生まれつき問題があったというのが病院側の説明でした。子供をそんな風に唐突に失ったことによって、夫婦は深く傷つきます。「しかしお互いを支え合うことで、二人は少しずつ傷の痛みから回復し、危うい時期を乗り越えることができた、」と少なくとも家福は思っていましたが、思い起こしてみれば、妻がほかの男と性的関係を持つようになったのは、そのあとからでした。「あるいは子供を失ったことが、彼女の中にそういう欲求を目覚めさせたのかもしれない。しかしそれはあくまでも彼の憶測に過ぎない。」と書かれていますが、「憶測」も「かもしれない」もなく、それが原因でしょう。明確過ぎて解説する気も起きません。(具体的に彼女がそんな事をした理由を心理学的に分析することは可能でしょうが、分析する気にもなれないという意味です。)


 
 みさきを運転手として雇って2か月近く立った頃、家福にみさきは「家福さんはどうして友だちとかつくらないんですか?」聞かれます。毎日送り迎えしていれば、家福に友だちがいないことはみさきにはわかります。いくつかの会話のやりとりがあった後、家福は「僕が最後に友だちを作ったのは十年近く前のことになる」と言います。そこから、家福のみさきに対する過去の告白が始まります。過去の「友だち」の名前は高槻という名の俳優でした。彼は、家福の奥さんと寝ていました。彼は、妻が寝ていた他の男たちのうち、彼女が死ぬ前の最後の男になります。妻が亡くなった後、家福は「なぜ妻がその男と寝なくてはならなかったのか」興味を持ち、妻が亡くなって半年後に彼に会ったとき、時間をもらって話をしたいと言います。ここから、家福と高槻の交流がはじまります。

 しかし家福が高槻と会った理由は、実は彼を「なんとか懲らしめてやろうと考え」ていたためでした。高槻は酒が入るとわきが甘くなって、なんでも話してしまうような人間でしたので、それを手掛かりにして社会的信用を失墜させるようなスキャンダルを起こさせるようなことはそんなにむずかしいことではありませんでした。しかし、家福は(彼の話によると)実際には何もしませんでした。彼は高槻と話をしているうちに、むしろ彼に好意を抱きますが、「あるときから急にいろんなことがどうでもよくな」ってしまい、そのうちに彼は高槻と連絡もとらずまったく会わなくなります。

 しかし、結局家福には「奥さんがどうしてその人(高槻)とセックスしたのか。どうしてその人でならなかったのか」つかめませんでした。これに対して、みさきは「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」「だから寝たんです」「女の人にはそういうところがあるんです」「そういうのって、病のようなもんなんです。(後略)」と言います。

 

 以上読んでいて、村上春樹の過去作のいくつかが思い出されるような作品です。この小説は、いわゆる「リアリズム」的描写の作品で、だから「わかりやすい」作品といえます。ですが、村上春樹らしい謎めいた雰囲気もなければ、不思議な現象が起こったりするようなファンタジーまたはシュルレアリスム的な描写もありません。個人的にはそこら辺がちょっと物足りないかな、と思います。

 しかし、この小説が長編小説の冒頭であると想像すると、けっこう面白い展開があるかもしれません。実際に過去の短編が元に長編小説になった作品も複数あります。(実際にはこの作品が長編になる可能性は低そうな気がしますが。)

 ということで、この小説が「長編小説の冒頭である」という想定の元で、この小説の続きを勝手に想像してみました。よろしければご覧ください。

 

         ☆       ☆        ☆

 

 やがて、みさきが家福のドライバーとして契約している期間は終わり、みさきは家福のドライバーを辞めます。ここから、小説は家福のパートとみさきのパートに小説は分かれ、交互に話は進みます。

 

(家福のパート)
 家福は、昔高槻と飲んで話をしていた過去を回想します。高槻は、酒を飲み過ぎる傾向があり、家福が考えたとおり「自分から何かを取り去るために酒を飲まなくてはならない」人でした。高槻の酒の飲み方や彼の話を聞いているうちに、家福は、高槻が自滅に向かっていることを感じます。そして、家福は高槻を酒に誘うことによって、彼が自滅に向かう手助けをしているような罪悪感を抱くことになります。

 やがて、家福は高槻を殺す夢を見ます。夢はいつも同じです。バーで飲んだ後、家福の家で飲み直し、高槻はやがて眠ってしまいます。眠ってしまった高槻の首を絞めて家福は彼を殺し、自分の車で遺体を山奥に運んで埋めようとします。遺体を埋めるためにシャベルで穴を掘っている最中に、家福は目を覚まします。
 毎日のように同じような悪夢を見るようになり家福は怖くなります。もうこの頃には、高槻に復讐しようとする気持ちはなくなっています。悪夢から逃れるために、家福は高槻との連絡を一切絶ち会いません。

 彼と会わなくなる事によって、夢の頻度は下がりますが、忘れた頃に家福は高槻を殺す夢を見続けます。その時折見る悪夢は彼を悩ませます。

 そして半年前、家福は高槻が失踪したニュースを知ります。連絡を取らないと決めた時から、家福は高槻と顔を合わせることはありませんでしたが、彼は高槻を殺す悪夢を思い起こし、「高槻を殺したのは自分ではないか?」と思います。後のニュースで彼は高槻が失踪した日時を知りますが、彼はその日時の自分の記憶が欠落していることに気が付きます。その日は仕事が一切入っていないOFFの日で「一日中一人で自宅にいたはず」でしたが、彼には確信が持てません。「自分の記憶のないままに、自分が悪夢の通りに高槻を殺したのではないか?」と、家福は自問自答し悩むことになります。

 

(みさきのパート)
 みさきは、家福のドライバーを辞めた後、色々な所でドライバーの仕事をしながら、何かを探っています。やがてみさきが、半年前に失踪した高槻の失踪する直前の動向と彼の行方を探していることが分かります。彼女が家福のドライバーになったのも、実は高槻の事を家福が知っていないか探るためでした。

 なぜ、みさきが高槻のことを探っているのかは不明です。高槻が、みさきの家族を捨てた父親であるかのようなミスリードもされますが、実際には違います。結局、彼女が探っている理由は小説内では明らかにされません。

 みさきが高槻の半年前の動向を探ることによって、失踪前から高槻が自分自身を破滅に追い込んでいたことが明らかにされます。そして色々調べた結果、みさきは高槻の失踪の真相についてひとつの真実にたどり着きます。

 みさきは家福に電話をかけます。高槻の失踪の件について、お話をしたいと。家福は待ち合わせにバーを指定して、2人は会います。みさきがバーを訪れると、家福は既にバーのボックス席にいて、何かを覚悟したように座っています。みさきは彼の向かいの席に座り、告白を始めようとします。
 
 ・・・といったところで、村上春樹式投げっぱなしジャーマン的に小説は唐突に終了します。結局、高槻失踪の真相は明らかにされないまま小説は終わります。

 

(平成26年4月21日 追記)

 単行本では、みさきの本籍地は上十二滝町になっています。・・・・・・懐かしいですね。(まあ、『羊をめぐる冒険』の舞台は十二滝町ですが。)

 

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