謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「1973年のピンボール」書評

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     激しくネタバレしています。ご注意願います。また、『ノルウェイの森』のネタバレ言及がありますので、ご注意願います。

 

では、「1973年のピンボール」の書評を始めます。

 

1.「失敗作」?

 この小説は、ある意味「失敗作」です。「失敗作」といっても、世間一般的な意味とはまた別の意味です。この小説は、ある目的のために書き始められ、目的に到達できないまま終わります。目的に到達できなかった意味で「失敗作」です。これに対して、「成功作」もあります。

 この小説の目的は、2つありました。

     小説(幻想)世界で直子と邂逅し、直子の自殺の原因を解き明かす。

     キズキの自殺の原因を解き明かす。

  そして、2つの目的はこの小説では達成されず、後の作品に委ねられます。

①の原因は「ノルウェイの森」で、②の原因は「羊をめぐる冒険」で解き明かされます。

 

2.双子の意味は?

 彼女達は、主人公を小説(幻想)世界へ導く女神たちです。彼女達が登場すると幻想世界がはじまり、彼女達が去ると幻想世界が終わります。小説(幻想)世界に入ることで、キズキと直子の自殺の原因を解き明かそうとうする主人公の試みです。2人いるのは「入口」と「出口」を司るためです。1人では、「出口」がなくなり現実に戻れません。彼女達の導きで主人公は幻想世界に入り、小説の力で答えを見つけようとします。

 

3.「ピンボール」とは?

「永遠と続くかのような自問自答」です。直子が自殺した後、主人公は延々と自問自答を続けます。なぜ直子は自殺したのか?自分はどのようにしたら彼女の自殺を防ぐことができたのか?延々と自問自答しても答えは出ません。1970年の新宿のピンボールは、そうした主人公の自問自答の比喩です。3フリッパーズの「スペースシップ」は直子の比喩でもあります。主人公は「スペースシップ」に何度も問いかけます。しかし、答えは出ません。リプレイ、リプレイ、リプレイ・・・。

 (文庫版120121ページから傍線部のみ引用)「あなたのせいじゃない」「あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない」「違う」「違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でもやろうと思えばできたんだ。」「人にできることはとても限られたことなのよ、」「そうかもしれない」「でも何ひとつ終わっちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。」「終わったのよ、何もかも」

 年が明けた二月、彼女(スペースシップ)は消えます。答えが出ないので、主人公は自問自答をやめます。

 なぜ、一旦あきらめた問いかけを再び1973年に始めるのか(ピンボールを探すのか)?主人公は、小説を書くことによって直子の自殺の原因を解き明かすことができるのではないかと思いつきました。これが、「スペースシップ」探しであり、原因を探した過程を示したのがこの小説の内容です。

 

4.「カード」の比喩の意味は?

 文庫版153ページで「カード」として提示されたもの(「配電盤、砂場、貯水池、ゴルフ・コース、セーターの綻び、そしてピンボール・・・」)の比喩の意味は何か?これは、直子の自殺の原因を探るためのアプローチしたキーワードを指していると思われます。何を指しているのか正確にはわかりませんが(結局、どのアプローチも正解に到達していませんので)、想像できそうなものだけ書いてみます。

・配電盤・・・直子の自殺には親子関係あるいは遺伝が関係しているのではないかというアプローチ。貯水池の葬式はよく分かりません。

・(ゴルフ・コースの)砂場・・・直子の自殺に純潔や、潔癖さを重んじる性格が関係しているのではないかというアプローチ。

しかし、上記の2つのアプローチは結局どこにも到達せず、原因の解明には至りません。つまり、上記のアプローチはあまり重要な原因ではなかったということかと思います。結局ピンボール(自問自答)に戻ることになります。

     セーターの綻び・・・セーターの綻びを直してくれる彼女の好意に気が付かない、あるいは気が付かない振りをしているという意味かと思います。これは、緑が自殺に何か関係あるのではないかという意味を暗示しているのでしょうか?(ちょっと穿ちすぎ?)

 

5.鼠が出るパートの意味は?

 この小説は主人公が出るパートと、鼠が出るパートがあります。

 鼠が出るパートでは、鼠が女と出会って付き合い、そして別れ(会わなくなり)、ジェイズバーと故郷に別れを告げるまでが描かれます。このパートの意味は何でしょうか?

 ジェイズバーを離れることは、小説(幻想)世界からの脱出、つまり鼠の死を暗示します。小説のはじめの方にあった鼠取りの話も鼠の死を暗示しています。つまり、幻想世界の住人であった鼠が死の世界へ帰還することを予感させてこの小説は終わります。

 なぜ、この小説で鼠の死を暗示させる必要があったのか?これは、この小説で鼠=キズキの自殺の原因を探る意味があったためだと思われます。鼠が旅立つ(=死)ことを決意するまでの過程を描写することを通じて、キズキがなぜ死んだのか解き明かせないかという試みでしたが、この試みはうまくいきませんでした。

 

6.なぜ、この小説は「失敗」したのか?①~キズキの死

 キズキの自殺の原因を探ったのが鼠のパートです。このパートはリアリズム小説の手法で描写されています。しかし、この手法はアプローチを間違えています。リアリズム小説の手法は、主人公の記憶している現実を描写することにより、正解を求める手法です。しかし、そこで描写される現実とは主人公の視点によるものでしかありません。(「風の歌を聴け」書評)で示したようにキズキが自殺した原因は、おそらく父親が関係しています。ところが、親友といっても主人公はキズキの家庭内の詳細な事情まで知らなかったと思われますので、主人公の視点からでは実際には自殺の理由はわかりません。このため、本来キズキの自殺の原因を探るには、想像(幻想世界)の力を借りる必要があったのです。

 

 この小説ではリアリズム小説の手法を使ったため、鼠の自殺の理由らしいものは主人公視点で理解できそうなものが出てきます。主人公の視点では、キズキと直子の付き合いがキズキの大きな部分を占めているかのように見えてしまいますので、やはり自然と直子との関係が何か自殺と関係しているのではないかと考え、その方面からのアプローチとなります。

 

このため、この小説では鼠と付き合う女性が登場します。しかし、この考察は結局正解にたどり着きません。女性の描写は曖昧なものとなり、あまり詳しく描写されることもなく、鼠は彼女と別れ旅立つことを決意します。おそらくこの小説の時点では正解にたどり着けないまま、自殺の原因は直子がやはり何か関係しているのではないかという曖昧な考えのままで主人公の考察は終わります。この考察は、「風の歌を聴け」よりも正解から後退した印象を受けます。

 

7.なぜ、この小説は「失敗」したのか?②~直子の死

直子の自殺の原因を探ったのが主人公のパートです。この小説は双子(幻想世界の女神たち)の力を借りて幻想と比喩を用いて直子の自殺の原因を探そうとしますが、うまくいきません。小説の終わりあたりで主人公は「スペースシップ」(=直子)を探し当て、短い時間ですが邂逅しますが、正解は与えられません。

 

これは、主人公が正解にたどり着くには、キズキの場合とは逆にリアリズム小説の手法が必要だったということです。主人公は直子の側にいて過去も知っているため、主人公からの視点でも原因を解き明かすことは可能でした。なぜ、主人公が幻想的アプローチをしたのかというと、現実を直視したくなかったからです。「ノルウェイの森」の書評でも触れましたが、直子の自殺の原因は主人公の存在も原因の一つとなっています。現実を直視するとこの事実を突きつけられます。この事実は直子を救うために必死だった主人公にとって非常につらい事実です。主人公が現実を直視し、直子の自殺の原因を自分の中で整理していくには、もう少し時間が必要です。

 

ノルウェイの森」には以下の描写があります。

「もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。」

厳密には「1973年のピンボール」でも直子のことは書かれています。しかし、「ノルウェイの森」の「現在」の頃の主人公にとっては、この小説は「一行たりとも書くことができなかった。」に等しい小説なのだといえます。

 

これで「1973年のピンボール」の書評を終わります。次回は「羊をめぐる冒険」の予定です。

 

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