謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「国境の南、太陽の西」書評

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激しくネタバレしています。ご注意願います。
 
(この小説は曖昧な部分が多く、確定的な解釈は難しいです。このため、以下はあくまで個人的な解釈であり、他にもいろいろな解釈があり得るであろうことをお断りしておきます。)
 

 この小説はホラー小説で、主人公が過去に捨てたはずのものに追いかけられるという話です。

 主人公は、中学校になると島本さんと会わなくなり、高校時代に付き合ったイズミとはひどい裏切りをする形で別れます。島本さんは、過去への憧れの象徴であり、イズミは過去に傷つけてきたものの象徴です。

 

 タイトルの「国境の南」は(原曲の指すメキシコではなく)、「よく分からないけれど、おそらく素晴らしいところ」であり、「太陽の西」は、破滅に取りつかれた人間(ヒステリア・シベリアナ)のことを指します。人間は「よく分からないけれど、おそらく素晴らしいところ」に行くために破滅にとりつかれることがあります。しかし、島本さんの言っているように「国境の南」と「太陽の西」は少し違ったところです。(「少し」ではないと思いますが。)

 

 この小説の主人公は「良くない人間」です。良くない人間とは、小説の描写にあるとおり「悪」をなす人間であるということです。ただし、ここでの悪とは犯罪行為ではなく倫理的な悪です。ここで書かれている倫理的な悪とは結局「愛されている人の信頼を裏切ること」=「不倫」といえます。これは主人公が結婚しているからという話だけではありません。主人公がイズミを裏切ったのも(世間的にはそう呼ばないでしょうが)「不倫(倫理的な悪)」です。

 

ある種の人間は平凡なそこそこな人生で満足せず、(九の外れがあっても)一の至高体験を求めます。この強い渇きがある種の才能を生み出すこともありますが、一方でその渇きが悪を呼び込むことにもなります。

 

主人公は過去を捨て去り、現在を生きます。そして、有紀子と出会い結婚し、2人の娘ができ、繁盛しているジャズ・バーを経営して、生活も裕福そうです。普通の人が想像している、そこそこ幸せな生活を手に入れているかのようにみえます。

 そうして、過去を捨て去って忘れ、幸福な生活を手に入れたはずの主人公のもとに捨て去ったはずの過去の象徴である島本さんとイズミが現れます。

 

 主人公が現在出会っている島本さんは、生きておらず幽霊です。しかし、全く実体のない幽霊ではなく、空っぽになったイズミに島本さんの幽霊がとりついている状態なのだと思われます。主人公が会っている島本さんは、現実の島本さんではなく、島本さんの姿(と主人公には見える)をしたイズミです。島本さんの姿をしたイズミと主人公が結ばれることによって、イズミは主人公に復讐します。

 

 イズミの色彩は赤で、島本さんの色彩は青です。小説の中で赤の色彩の女性に何度か主人公は出会うことになりますが、その中の何人かは、実はイズミなのだと思われます。しかし、主人公はそれがイズミであることに気がつきません。主人公は生活の中で、一種の幻覚を見ている状態にあります。そして、ずっとイズミは主人公のことを見ていたのです。イズミが、島本さんとして主人公の前に現れるときは青の服を着て現れます。

 

 赤の色彩の女性についてですが、まず、会社に入って2年目の年に、脚の悪い女の子とダブル・デートをしています。彼女は赤いタートルネックのセーターを着ています。しかし、この女性はおそらくイズミではないでしょう。といいますか、小説上この女性がなぜ現れたのかよく分かりません。主人公にあったかも知れない可能性のひとつとして現れたということなのでしょうか。

 

 次に28歳のときに主人公は渋谷で島本さんらしい女性を見かけ、その後を追いかけます。彼女は赤い長めのオーヴァーコートを着ています。彼女は島本さんの姿(と主人公には見える)をしたイズミだと思われます。

 男から渡された10万円の消失は、実際には主人公の幻覚が、28歳の頃からはじまっていたということになります。10万円が消失したことによって、今まで主人公が見ていた島本さんは、現実世界の人ではなかったことが明らかになります。

 

 また、主人公は時々メルセデス260Eに乗った赤いカシミアのコートを着た女性と世間話をするようになります。彼女もおそらくイズミなのでしょう。そうでないと、なんで彼女がこの小説に出てくるのか不明です。(実際には、彼女の正体はこの小説の描写だけでは不明で確定できません。)そうやって、イズミはいろいろな機会をとらえ、主人公のことを見ていたのです。

 

 最後にタクシーの中で表情を失ったイズミと主人公は出会いますが、その直前に見かけた島本さんによく似た女性もやはりイズミということになるのでしょう。彼女は青いコットンのズボンにベージュのレインコートを着ていますが。これが、主人公が島本さん(らしい女性)を見る最後になります。

 

 箱根の別荘へ2人で行くときに島本さんの幽霊(イズミ)は、主人公に死ぬか、生きるかを問います。そして、主人公は島本さん(死)を選んだはずでした。しかし、箱根のカーブで2人は心中することなく、主人公は死なずに生き続けます。主人公を生き延びさせたのは何なのか。

 

それは、有紀子であり2人の娘であり、現実世界の繋がりという話になるのでしょうが、ただ、この小説の描写は死の世界の力が強すぎ、主人公が死の世界へ魅せられてしまっているので、普通に考えれば心中まっしぐらだという展開が自然です。少なくとも箱根のシーンの描写だけみるとその結末へ妨げるものはないように見えます。その後いろいろ描写されていますが、それは主人公が決断した後の話ですから、後付けの話ということになってしまい正直どうなのかなと思います。この小説は中途半端です。一の至高体験を求めてそれを選んだら、その代償は必要なはずなのです。この小説には続きがあるはずです。

 

なぜ、この小説に続きがないかというと、結局この小説が「ねじまき鳥クロニクル」を執筆した第1稿を推敲する際に削った部分が元になっており、そこに加筆する形で書かれているためでしょう。この続きにあたる部分はねじまき鳥クロニクル」のストーリーの中に回収されてしまっているのです。

 

客観的にみれば、主人公が未来に破滅する要素は既にばらまかれています。主人公は義父の裏金のために幽霊会社の名義人になったり、株の不正操作に関わったりしています。(すぐに売ればいいというものではなく、履歴にしっかり残っています。)おそらく近い未来、バブルの崩壊をきっかけに義父のやっていた危ないやりくりは破綻し、義父は破滅します。義父の巻き添えを食らって、彼ら一家も社会的に破滅するのでしょう。この小説が終わるのは1988年だと思いますので、まだ数年の猶予がありますが。

しかし、これは主人公が島本さんを選んだ代償とはまた別の話です。

 

この小説が刊行されたのは199210月です。いつバブルが崩壊したのかということですが、経済的な指標からいうと1989年が既にピークで、19903月の不動産総量規制が境目とされるのですが、実際には1991年は世間的にはまだ景気が良い雰囲気だったと思います。様子がおかしくなってきたのは1992年あたりからで、バブル景気のまさに泡沫の夢のようなジャズ・バーを経営する主人公は、バブルとともに消え去る運命であるかのように感じます。

 

 うろ覚えなのですが、村上春樹はインタビューで、最後の「誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。」の「誰か」は「島本さん」かもしれないと書いていたような気がします。(すいません、検索したのですが原典らしいものがわかりませんでした。このため、確かな文章がわかりません。)私は、はじめにこの小説を読んだときこの「誰か」とは普通に有紀子だと思っていたのですが、読み返してみて「誰か」とは「イズミ」なのではないかと思いました。この時点では「島本さん」は、この小説からもう消えてしまっているような気がします。

 

 次回「国境の南の南、太陽の西の西」(パロディ小説です)

は、この「誰か」が「イズミ」であると仮定した場合のこの小説の「続き」について検討したいと思います。

 

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