「国境の南の南、太陽の西の西」
(以下は、村上春樹「国境の南、太陽の西」の「誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。」の「誰か」が「イズミ」だった場合の続編を想定したパロディ小説です。よろしければ、ご覧ください。)
(「国境の南、太陽の西」、「ねじまき鳥クロニクル」のネタバレがあります。ご注意願います。)
誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。
振り返るとそこにイズミがいた。この前見たすべての表情を失ったイズミではない。まるで、高校時代のイズミがそのまま蘇ったような顔をして僕の前に立っていた。彼女は有紀子の服を着ていた。
「イズミ」僕は叫び、そのまま床にへたりこんだ。からだ中の力が抜けてしまったかのようだった。いつの間にイズミが入り込んでいたのだろう、誰にも気づかれずに。
僕が叫んだのに気が付いて2人の娘達が心配そうに居間にやってきた。起こしてしまったようだ。そして「どうしたの、お母さん」とイズミに聞いた。
「なんでもないのよ。お父さんは変な夢をみて、叫んでしまったみたいよ」と「何も心配することはないのよ」という表情で、イズミは娘達の頭をなでた。
娘達は「お父さん、大丈夫?」と聞いてきた。
娘達には彼女が有紀子に見えるみたいだった。僕はおかしくなってしまったのだろうか。
「大丈夫だよ。お父さんは怖い夢をみてしまったようだ。驚かせてごめんね」
そして、娘達の頭をなでてやり、部屋に戻した。
娘達がいなくなった後、僕はイズミに聞いた。
「どういうことなんだ」
「大きな声を出さないで」とイズミは言った。
「この姿があなたには、『イズミ』に見えるのね?でも、他の人には有紀子さんにみえるの。だって、この身体は有紀子さんのものだから。だから、あなたにしか『私』は見えないの。 そして、有紀子さんは『遠く』に去ってしまったの。それはあなたが『島本さん』を選んだからよ。それは、『私』が今ここにいることとは関係がないことなのよ」
「僕が、島本さんを選んだから・・・?」と僕は呟いた。
「そもそも、君はなんで島本さんのことを知っているんだ?」
「私は、あなたをずっと見ていたの。あなたが島本さんに見えていたのは、実は私の身体だったの。『空っぽ』になってしまった私の身体に、島本さんが入ってきてあなたに近付いたの。島本さんが私から離れたときに、記憶は全部置いていってくれたの。あなたは、私の身体とずっと会っていたの。だから、私はずっとあなたの側にいたのよ。」
「わけがわからない」と僕は頭を抱えた。
「わからなくても、あなたは理解しないといけない」とイズミは言った。
「島本さんと私のあいだで起こったことが、今、私と有紀子さんのあいだで起こっているの。有紀子さんは、あなたが島本さんを選んで裏切ったことによって、空っぽになって『遠くへ』行ってしまったの」
「そんな、馬鹿な・・・」と僕は呟いた。
だって、さっき僕は「明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけど、君はそれについてどう思う?」と尋ねて「それがいいと思う」と有紀子は言ってくれたのだ。
「それは、あなたの都合のいい幻想よ。そんなことは実際になかったの。全てあなたの妄想だったの。」イズミは言った。まるで、僕の気持ちを見透しているかのように。いや、実際にイズミは僕の気持ちを見透かしているのだ。
「あなたが、有紀子さんを裏切って島本さんを選んで、その選択に代償がないと思っていたの?もちろん代償はあるの。そして有紀子さんは消えてしまったの」
「ねえ、イズミ。」僕は言った。
「君が有紀子にとりついて彼女をどうにかしたんだとしたら・・・」
「さっきも言ったけど、私は何もしていない。有紀子さんがどこか『遠く』に行ってしまったのは有紀子さんが選んだことなの。そして、その原因は『あなた』のせいなの。私には関係のないことなの」
そして、イズミは言った。
「あなたには選ぶ道がみっつあるのよ。ひとつめは、今すぐ死ぬこと。そうすれば、『たぶん』あなたは、島本さんと『あの世』で結ばれるわ。ふたつめは、このまま有紀子さんが帰ってくるのを待つこと。そして、みっつめはあなたが、有紀子さんを探し出すこと。
有紀子さんが、どこにいるかは私にもわからないわ。彼女は心だけの状態だから、どこにもいないともいえるの」
「それじゃあ、どうすればいいんだ」
「彼女に呼びかけることね。呼びかければ答えてくれるかもしれない」
イズミは僕の肩に手をのせて言った。
「考えなさい、ハジメ君。考えるのよ。時間はたっぷりあるわ」
それから1日中僕は、居間にうずくまったままで何もできないでいた。
次の朝になるとイズミがやってきた。
「イズミ。僕は君に謝らないといけないことがあるんだ。今まで、ずっと謝らなければと思っていたんだ」
「謝るって昔のこと?それなら、謝るのはやめて。それはもう終わってしまったことなの。今の私は、あなたを許すことも、許さないこともできないの。それはもう全て過ぎ去ってしまって、取り返しのつかないことなのよ。ある地点を通りすぎると物事はもう引き返すことができないの。私にもどうすることもできないの」
「なぜ、ここにきみはいるんだ?」
「私がここにいるのは、ハジメくんを見ているため」
「僕を見ていて何の意味があるんだ」
「私は見ているだけなの。ハジメくん。見ていること自体には意味なんて何もないのよ。ただ、なぜ見ているのかについては、理由がある。ひとつは、島本さんが去るときに『ハジメくんのことを見ていてあげてね』と頼まれたから」
「島本さんに?」
「そう。私が見ていても、なんの意味もないのに不思議な話ね。でもそれが彼女の最後の言葉だったから、聞いてあげることにしたの。
ふたつめは、私の役割はもうそれしか残っていないの。今の私は残像のようなもの。ただ、あなたを見ているという役割のためだけにここに留まっている。あなたが『どこかに』たどりついたら、私は役割を終えて消えていくだけよ」
その言葉で、現実の「生きている」イズミはもうこの世にいないのだと僕は感じた。
その夜、義父が家を訪れた。忙しい義父が家を訪れることはめずらしいことだったので、ぼくはびっくりしたが、どうやらイズミが呼んだようだ。僕以外の人間には、彼女は有紀子に見えることを証明するために呼んだらしい。
義父は僕の顔を見て、疲れた顔をしているようだが大丈夫か、と聞いた。
僕は、最近忙しくて寝不足で、と答えた。
次の日、僕は前にイズミの消息を教えてくれた知人に連絡をしてみた。彼の仕事帰りにコーヒーハウスで待ち合わせた。彼は、僕が何を聞こうとしているのかわかっているようだった。
「聞いたのか?」と彼は僕に尋ねた。
「彼女は、イズミは亡くなったんだね?」僕は聞いた。
「そうだ、彼女は亡くなった」
「いつ?」
「2日前だ」イズミが有紀子に「とりついた」日だ。
「死因は?」
「それがよく分からないらしい。自殺や事件ではないようだ。目立った外傷とか病気とかはなかったそうだ。体は健康なんだが、まるで魂が抜けてしまったような状態で、そのまま亡くなっていたらしい」
僕は肩を落とした。
彼は僕の肩に手を乗せて言った。
「昔、何があったのかは知らないけど、彼女が死んだのは君のせいじゃない。あまり自分を責めるな」
「いや、僕のせいだ」と僕は呟いた。
彼はそれ以上何も言わずに黙っていた。
数日後、イズミの葬式があった。
僕は久しぶりに実家のある町に帰った。イズミには何も告げなかった。
「これから、君の葬式に行くよ」とも言えない。いや、本当は言った方がいいのかもしれない。でも、僕にはそれがイズミの死を確定してしまうかのようで怖かった。実際に葬式に行くまでは信じたくなかったのだ。僕は先延ばしをしていた。
僕はイズミの葬式が行われている斎場へ向かった。そして斎場の入り口の庭のところで、僕は肘を誰かに掴まれた。
僕はその肘を掴んだ男の顔を見たときに、驚いて何も言えなくなった。
そこには、28歳のときに島本さんを追いかけたときに僕を阻んだ中年の男がいた。
「会場に行くことはやめなさい。あなたがイズミさんの葬式に行く資格はない。あなたがイズミさんの親族に顔を合わせる資格はない。それはあなたが一番良くわかっているはずだ」
僕は、黙って頷き彼の言うことを聞いてその場を去った。僕は、彼と再び会うことがあれば聞きたいことがたくさんあると思っていた。しかし、今彼と顔を合わせて全ての疑問は解けてしまった。彼は僕だったのだ。彼は僕自身の生みだした幻覚だったのだ。なんて馬鹿馬鹿しい。
家に戻った僕は、イズミに言った。
「イズミ、君は死んだんだね」
「言ったでしょう。今の私は残像のようなものだって」
それから、数日が過ぎた。僕はイズミの言った3つの選択枝について考えてみた。ひとつめについては、選択枝には入れられない。僕は、有紀子と娘達を残して死ぬわけにはいかない。おかしなものだ。僕は島本さんと人生をともにすることを選んだのだから、その選択枝も有り得たのに、今、僕の中ではその選択枝は消え去っていた。
ふたつめのこのまま待つという選択枝だが、それでこのまま事態が好転するとは思えなかった。そして、みっつめの選択枝、有紀子を探すことだ。でも、どうやって?有紀子の身体はここにいる。消えてしまったのは有紀子の心だ。消えてしまった心はどうやって探せばいい?
考えてもいい考えは浮かばなかった。しかし、僕はなにか動かないと気がすまなかった。
僕は、はじめて有紀子と会った場所へ行ってみることにした。そこに有紀子がいるとは思えなかったが、何かをせずにはいられなかったのだ。
田舎道を散歩していると、突然激しい雨が降り出した。あの時と同じだ。雨宿りに飛び込んだところに2人の女性の先客がいた。そのうちの1人の後ろ姿を見たときに僕は息を飲んだ。その姿が有紀子そっくりだったからだ。僕は思わず声をかけそうになった。その時、彼女が振り返った。彼女の顔は有紀子とは全然違う顔だった。
僕は笑い出した。おかしくなってきているのかもしれない。僕は外へ飛び出した。あっという間に雨でびしょびしょになったが、僕は構わなかった。そのまま雨の中を僕は歩き続けた。
僕は家に戻った。結局有紀子はどこにもいないのだ。
僕自身に問題があるのだから、彼女は戻ってこない。だから、彼女が戻ってくることはない。僕は途方にくれた。どうすればいい。彼女が戻らないことを望んでいるならば、このまま諦めてこの生活を続けるしかないのか。それが僕に与えられた罰なのか。誰も答えを返してくれない。何も変わらないまま、しばらく日々が続いた。
それは、僕がいつも通っているプールで泳いでいる時のことだった。
有紀子のかすかな声が聞こえたような気がした。その声は、かすか過ぎて何を言っているのかはわからなかった。しかし、僕に助けを求めていることだけはわかった。有紀子の魂はどこかに迷いこんで、戻る場所がわからず叫んでいるのだ。彼女は一方で僕を拒みつつ、一方では僕を探して呼んでいる。
しかし、彼女の声は小さ過ぎて、どこにいるのかも、呼びかけることも僕にはできない。どうしたらいいのだろう。僕は頭をかかえた。
そして、あの電話が鳴った。それは、僕が家でスパゲティをゆでている時のことだった。あの電話がすべてのはじまりだった。僕が有紀子を探す長い長い旅が、その時からはじまった。でも、僕は、あの電話が有紀子を探す旅のはじまりになることをまだ知らない。僕がはじめはいたずら電話だと思って途中で電話を切ってしまうことも、まだ知らない。
僕が有紀子を探す物語が今、始まった。
(END)
(補足)
「ねじまき鳥クロニクル」とは違って、この後のストーリーで主人公が対決しなければいけないのは、自分の中にある「悪」になると思われます。自分の中の「悪」と、他者の「悪」とどちらと対決する方が困難なのかはわかりません。
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