謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「ねじまき鳥クロニクル」書評①

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。(「羊をめぐる冒険」に対する言及があります。)

 

 それでは、「ねじまき鳥クロニクル」の書評をはじめます。
 この作品のテーマは2つあり、1つは「妻が去る」ことについてです。もう1つは「『根源的な悪』との対決」です。

 

1.妻が去る
 妻が去る展開はよく村上春樹作品で語られます。短編でもよく出てきますし、長編では「羊をめぐる冒険」で妻が去ります。妻が去る理由として、「羊をめぐる冒険」書評でも触れたように主人公が「自分のことしか考えていない」というのがとりあえずの解答として与えられます。主人公は去る者は追わずひとりになります。

 しかし、「自分のことしか考えていない」から「妻が去る」というのは一面の正解ではありますが、半分だけの正解でしかありません。夫婦である2人が別れることについて、一方だけ問題がある場合もありますが、必ずしもそうとは限らず、双方が問題を抱えていることの方が多いです。そして去る側がその人自身のなんらかの問題を抱えている可能性も、もちろん高いです。それを「自分に問題があった、自分のことしか考えていないから妻が見限って去った」という結論に落ち着いて諦めるのは、全てを自分の問題・責任として引き受けて潔いように見えて、本当はそこに存在する問題を直視せずに逃げていることに過ぎないのかもしれません。
 もちろん、問題を直視せずに別れることもひとつの選択枝としてはありえます。その問題が深刻な場合は、問題が重過ぎて対処できず2人とも破滅してしまうこともありえるからです。

 しかし、「ねじまき鳥クロニクル」の主人公は過去の作品の主人公達とは違って、妻のクミコに隠されている問題を突き詰め、解き明かし、妻を取り戻そうとします。これは従来の作品とは違った展開です。


2.無意識世界の戦場・井戸
 もう1つのテーマが「『根源的な悪』との対決」です。「『根源的な悪』との対決」は「後期村上春樹作品」の重要なテーマですが、このテーマを明確に打ち出したのはこの小説が最初と言ってよいでしょう。これより前の作品にも「根源的な悪」は出てきますが、はっきりとこれと「対決」し、暴力的な手段を使って倒すという描写が出た作品ははじめてかと思います。

 この作品の基本的な世界観について説明します。この作品の世界観は基本的にユング心理学を下敷きにしていると思われます。といっても、私はユング心理学の研究者ではありませんし、作家の世界観がどこまでユング心理学の考えに忠実なのかもわかりません。多分正しい理解からはちょっとずれていると思いますので、「お前のユング心理学理解は間違っている!」というツッコミはなしでお願いします。

 まず、この作品に限らず村上春樹作品にはよく「井戸」が出てきます。これは、精神分析の用語の「エスラテン語でイド)」の比喩です。「人には、体の内部から駆り立てられる力、本能的なもの、すなわち欲動がある。精神分析では、これを無意識的なものとして、「エス」と呼ぶ」(大場登・森さち子「精神分析ユング心理学」(NHK出版)より引用)とされています。

 村上春樹は、「個人的無意識」の比喩として「井戸」という言葉を使っているものと思われます。ところで、ユング心理学には「集合的無意識(普遍的無意識)」という概念があります。「集合的無意識」とは、「個人的無意識」より深い無意識、個々人が体験するより以前に、すでに生まれたときに持っている無意識であり、人類的に普遍的に誰の心の中にも、だいたい同じように存在している「無意識」のことです。この人類に普遍的に存在している「無意識」の型をユング心理学では「原型」と呼んでいます。(参考文献:林道義ユング 人と思想59」清水書院

 つまり、我々の無意識は個々人でバラバラのように見えて、「個人的無意識(井戸)」の底には「集合的無意識(地下水脈)」があり、この地下水脈を通じて我々は繋がっています。 地下水脈を通じて我々は互いに共感したり、深く理解し合えたりすることができます。「物語」は、この人々の「集合的無意識」にはたらきかけることによって、共感や感動を生むものだと作家は考えていると思われます。この小説における「『井戸』の底に下りる」という行為は、無意識世界に潜り、地下水脈を探すことによって他者を本当に深く理解しようとする行為のことです。

 しかし、本来人々が共感し理解するための重要な要素である「集合的無意識」を悪用しようとする人達も現れます。彼らは、この人々の共感する「集合的無意識」に働きかけて、暴力、悪意、憎悪や敵意の負のイメージを人々に共有させようと働きかけます。憎悪と悪意の先には、戦争、テロや民族浄化の「巨大な悪」があります。こうして起こったのが20世紀の悪夢であるファシズムであり、ビックブラザー(独裁者)であり、ホロコーストであり、第二次世界大戦でした。

 我々は、こうした「根源的な悪」に「集合的無意識」の地下水脈を汚されないように注意し続けなればいけません。

 

 
3.ねじ緩め鳥(ボリス・ワタヤノボル)
 この作品で出現する「根源的な悪」は「ねじ緩め鳥」です。「ねじ緩め鳥」とは前項で述べた人々の「集合的無意識」のねじを緩め、憎悪や悪意等の負の感情を増幅・共振させることによって「悪」をなそうとする人間のことです。ワタヤノボルの力の源は第2部で主人公が井戸の底で見る夢(というかたちをとっている何か)でワタヤノボルによって語られます。彼は他人の「欲望の根」を見つけ出し、彼らの欲望のねじを緩め暴走させることができます。そして、彼の力はメディアによって増幅されます。
 
 こうした他人の「無意識」に働きかけ、精神を汚し、コントロールすることが非常に得意な人間というのは現実に存在します。彼らは「精神の捕食者」です。彼らの存在は、非常にまれというわけでもありません。ビッグブラザー(独裁者)、例えばヒトラースターリンのような「巨大な悪」を例に出すと、「あんな悪人はめったにいるわけがない」と思いますが、実際には規模が小さいだけでそのような型の人間は普遍的に存在します。ワタヤノボルは身近な人間であり、そうした人間は案外近くにいることを示しています。

 この小説に出てくる「ねじ緩め鳥」を体現する人物は2人います。皮剥ぎボリスとワタヤノボルです。
 ワタヤノボルは、もともとそういう「素質」を持っていたのでしょうが、はじめはその力を近親者にしか適用できていませんでした。しかし後に、彼はなんらかの時点(おそらく彼がテレビに出演するようになった頃に)で、世間の多くの人間に精神的な影響を及ぼす力、「根源的な悪(ねじ緩め鳥)」を伯父から継承しています。それは、いわば「羊をめぐる冒険」における「羊」のようなものです。満州における防寒被服のための「羊毛」の状況視察をしたのがワタヤノボルの伯父であるのは象徴的です。ワタヤノボルの伯父は「ねじ緩め鳥」を満州で見つけ、その運び手になり、ワタヤノボルに継承させました。(伯父はただの運び手であり、その力を発現させてはいないと思われます。)

 しかし、皮剥ぎボリスとワタヤノボルの伯父の接点は無さそうなので、彼らは別個の「根源的な悪」なのでしょう。しかし、この「ねじ緩め鳥」は満州外蒙古の国境地帯を根源とするもので、根は一つのものだと考えられます。ボリスとワタヤノボルは「ねじ緩め鳥」であることで繋がっています。

「根源的な悪」はその継承者を求めます。次なる「悪」の継承者が必要であるがゆえに、ワタヤノボルはクミコの子を必要としました。

 

4.ねじまき鳥(間宮中尉・オカダトオル
「ねじまき鳥」とは「ねじ緩め鳥」によって、緩められた世界のねじを巻いて、世界に秩序を取り戻す人のことです。この「ねじまき鳥」は特殊な英雄ではなくて「ねじ緩め鳥」と対峙しなければいけないことになった「普通」の人間です。このため、最初の段階では彼らは無力です。この物語では、初めは主人公は真実を見通す力もなく、「悪」を倒す力も持たず、引き起こされる事態に翻弄されるだけでしたが、深く「井戸」の底に潜ることや、その他の体験によって「悪」と対決する資格と力を得ます。

 間宮中尉は、先代の「ねじまき鳥」です。彼は、力が及ばず「ねじ緩め鳥=ボリス」を殺せませんでした。ボリスはそれを「呪い」と呼びました。しかし、間宮中尉の無念が彼の「物語」として主人公に受け継がれ、主人公の力となっています。主人公が「ねじまき鳥」を継承し「悪」を殺すことによって、間宮中尉にかけられた「呪い」(一生無意味な人生を送るという呪い)は解け、彼の人生は意味を与えられます。そして、彼は再生します。

 

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