謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「ねじまき鳥クロニクル」書評②

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

5.猫(ワタヤノボル⇒サワラ)
 猫の失踪が、この小説のはじまりであり全ての問題のきっかけになっています。
 クミコは今まで欲しいものは決して手に入れられない生活をしていました。そうであるがゆえに、子供の頃から飼いたかったが飼えなかった猫を飼うことが「新しい生活」の象徴でした。

「私も子供の頃から猫が飼いたくてしかたなかったの。でも飼わせてもらえなかった。(中略)これまでの人生で、何かを本当に欲しいと思ってそれが手に入ったことなんてただの一度もないのよ。ただの一度もよ、そんなのってないと思わない?そういうのがどんな人生か、あなたにはきっとわからないわ。自分が求めているものが手に入らない人生に慣れてくるとね、そのうちね、自分が本当に何を求めているのかさえだんだんわからなくなってくるのよ」

 その猫が失われたことは、2人の新しい生活が脅かされる災厄の予兆になりました。

「わかってほしいんだけど、あの猫は私にとっては本当に大事な存在なのよ」「というか、あの猫は私たちにとって大事な存在だと思うの。あの猫は私たちが結婚した次の週に、二人で見つけた猫なのよ」

 しかし、なぜ猫は「ワタヤノボル」という不吉な名前を初め与えられたのでしょうか?およそ2人の新しい生活を象徴するものにふさわしくない名前です。これはこの小説が書かれた当初は、「ワタヤノボル」は「悪」とは限らず、主人公の「投影」かもしれない可能性があったからだと思われます。主人公はワタヤノボルを憎んでいますが、それは本当にワタヤノボルが憎むべき「悪」だからなのではなく、ただ単に自分の中に持っている自らの否定的な性質をワタヤノボルに見出し投影しているだけなのかもしれません。このような考えに立った場合は、猫のワタヤノボルの失踪は、主人公の否定的な性質である「影」がコントロールを失った、と解釈することもできます。この解釈の場合は、妻の失踪は(人間のほうの)ワタヤノボルが原因なのではなく、主人公の内面に問題があったことになります。

 「ワタヤノボル」という名をつけたのは主人公でしょう。たぶん主人公はこの猫のことはあまり好きではなかったのだと思います。(なぜ好きではないかと言うと、もちろん「ワタヤノボル」に似ていたからです。)小説内で「僕はその猫のことだって好きだった」とは書いていますが、そのすぐ後に「でも猫には猫の生き方というものがある」と突き放しています。2人の新しい生活の象徴と思って猫を大事に思っていたクミコと、それほどは重要に思っていなかった主人公に気持ちのずれがありました。ここらへんにも夫婦のすれ違いがあったのだと思われます。

 この物語のはじまりにおいては、主人公には自分の中に問題があったのか、それとも他者に問題があったのかわかりません。それを解き明かすためには主人公はそれこそ井戸の底に下りるように深く考えなければ真相を解き明かすことができませんでした。

 猫はどこへ行っていたのか?おそらく、井戸に落ちて「向こう側」へ行ったのだと思われます。そして、しばらく戻ってきません。これは、主人公が真実がわからずさまよっていることを暗示します。第3部のはじめに猫は戻ってきますが、これは主人公が問題を解き明かしたからだと思います。猫の帰還は、重苦しいこの小説の中のささやかな「良いニュース」となります。

 帰還した猫は主人公の「投影」的存在であることを暗示した「ワタヤノボル」の名前ではなく新しい名前が与えられます。なぜ、「サワラ(鰆)」なのかはわかりませんが、やはり漢字に春が入っているので、春の到来(明るい未来)を暗示しているのかもしれません。
 加納マルタの猫のしっぽの夢は正直よくわかりません。名前も変わり別の猫に生まれ変わったという意味ですかね。

 

6.本多老人の贈り物 
 本多老人が形見分けに主人公にカティーサークの贈答用化粧箱を間宮中尉を通じて残しましたが、中身は空でした。これは、何を意味するのでしょうか?
 第1に間宮中尉が手紙で書いたとおり、主人公と間宮中尉を引き合わせること自体が目的だったと考えられます。
 第2に中身が空の箱を主人公に渡すことよって、妻の失踪を予言したのだと思われます。
 第3に中身は208号室にボーイが持って行った、カティーサークがその中身なのだと考えられます。

 

7.間宮中尉・井戸の底の至高体験
 間宮中尉は皮剥ぎボリスの命令によって井戸の中に飛び込むか撃たれて死ぬかを選ばされ、井戸に飛び込み、井戸の底に残されます。そして、本田伍長により3日後助け出されます。井戸の底にいる間に、間宮中尉は至高体験(光の洪水)をします。「そこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐ下りていけた」のですが、この至高体験は間宮中尉をどこにも導いてくれませんでした。そこに現れた「何か」は恩寵のようなものを与えようとしますが、結局間宮中尉には与えられません。恩寵は失われ、間宮中尉は呪われた人生を送ります。

 このことは、至高体験が必ずしもどこかへ導いてくれるわけではないことを示しています。間宮中尉は「何か」を見極めてとらえることができませんでした。それは啓示や恩寵の発する熱に耐えうるだけの力を彼が持っていなったからです。

 彼は啓示を受け止められず、うまく世界のねじをまく「資格」と「力」を得ることができず「悪」を倒せませんでした。彼は「たどり着けなかった人間」です。もっとも彼だけではなく、たいていの人間はたどり着けないのです。また、この話は人生において「啓示」が示される機会は一瞬であり、その時に掴み取ることに失敗した場合は、二度目の機会はないという警告でもあります。

 彼の体験と警告はオカダトオルに受け継がれます。彼の体験を受け継ぐことによって主人公は真相にたどり着き、「悪」を倒す資格を得ます。
 
 第3部のシナモンが語る「主計中尉」は主人公が推測しているとおり間宮中尉なのではないかと思われます。シナモンの「ねじまき鳥クロニクル」では中尉は絞首刑に処されますが、シナモンの語る物語と現実にはいくつか齟齬があるということでしょう。「ねじまき鳥クロニクル」には間宮中尉の存在が組み込まれていなければいけません。なぜなら彼は先代の「ねじまき鳥」だからです。

 しかし、彼は2度の「要領の悪い虐殺」を行い否応なしに暴力の渦に巻き込まれていきます。そして、シベリアの収容所で「地獄」を見ます。そこでは殺すのも殺されるのも、殺さないのも殺されないのも、そのあいだは偶然にすぎずそれを分かつ意味はありません。そうして無意味な「要領の悪い虐殺」を行い、地獄を目にすることによって彼は自分を擦り減らし、帰国するときは「空っぽ」になってしまいます。無意味な死を潜り抜けることで、彼の人生自体の意味が擦り減り無意味なものに近づいていったのです。


8.主人公はなぜ、井戸の底に下りる
 なぜ、主人公は井戸の底に下りるのか?直接のきっかけは本多老人の予言(「下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。流れのないときには、じっとしておればよろしい」)と間宮中尉の手紙です。はじめは何らかの啓示を受けることを期待して主人公は井戸の底にもぐります。しかし、井戸に下りたからといって、必ずなにかの啓示を受けたりするわけではありません。実際主人公が受けるのは太陽の光ではなく、半月(正確には井戸の半円形の口から見える風景ですが)であり、暗闇です。光は井戸の底まで届きません。

 しかし、井戸(個人的無意識)の底にもぐり深く考えることが、結局真実を解き明かす鍵になります。井戸の底は「集合的無意識(普遍的無意識)」につながっており、その地下通路を伝わって、208号室で主人公は「電話の女」と会うことができました。そして、彼女の名前をみつけることで、主人公はクミコを深く理解し彼女を取り戻すことができます。

 けれど、井戸の底と地下通路は危険な場所です。それは根源的な暴力や情動の世界でもあります。本当は意識を持って降りていくような場所ではありません。「向こう側」に一旦行ってしまうと戻ってこられないかもしれません。実際に主人公は2度生命の危機にさらされます。
 そして、この世界の人達は皆「ワタヤノボル」の味方で、「顔のない男」以外に主人公の味方はいません。完全な敵地です。

 主人公が下りる井戸はただの井戸ではなく水脈が枯れているうえに、出入り口を封鎖された路地の奥にあります。二重に「流れの疎外された場所」にあります。これは、人間の共感する力、お互いを深く理解する力が疎外されていることを暗示します。そこは間違った場所です。主人公が妻を取り戻すためには、「流れの疎外された場所」から地下水脈の流れを取り戻すことが求められています。

 

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