謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「ねじまき鳥クロニクル」書評④

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

13.加納マルタ・クレタ
 ① 加納マルタとクレタは同一人物
 加納マルタとクレタは主人公の前にどちらか一方しか現れません。このことは加納マルタとクレタは同一人物であることを示します。2人は同一人物の中の別々の人格です。「いや、主人公は両方見ているのだから、いくら変なメイクしていても同一人物だったらわかるだろう」という意見もあるかと思いますが、この小説では、同一人物であっても別の人格であれば、声や容貌も変わってしまうのではないかと思われます。「電話の女・クミコ」が典型的です。

 もっとも、最初の写真で加納マルタは2人が並んでいる写真を渡しています。だから、加納マルタのモデルにあたる「姉」は存在している(た)のでしょう。しかし、主人公と会っている加納マルタは現実の「姉」ではなく、加納クレタ本人です。加納クレタもまた「解離性同一障害」なのだと思われます。「自分がどこに行って何をしていたのかは思い出せないということは、よく起こるというほどではありませんが、ときどきは起こります」との発言があります。

 加納クレタは苦痛に満ちた人生、その後の無感覚な人生を生きてきました。そして、ワタヤノボルに精神的に汚されたことをきっかけに新たな人格(それが「加納クレタ」な訳ですが)を生み出しました。加納マルタは、新しい彼女の人格を導くためにつくりだされた人格です。その人格の発現は加納クレタの人格の誕生と同時だと思われます。このため、それ以前の加納マルタの「記憶」は遡って改竄されたものです。(あるいは、マルタの人格は昔から存在していたが、眠っていたという解釈も可能ですが。)

 加納マルタは自分が必要だと思う時にしか、その人格を表しませんので、誰も彼女に連絡をとることができません。彼女の方から連絡を来るのを待つしかありません。第2部の終わりあたりで加納クレタは新しい人格を獲得して、加納クレタの名前を失います。その人格にはまだ名前は与えられていませんが、加納クレタを導くための人格であった加納マルタの人格もその役割を終えて消滅します。

 このため、主人公は最後に加納マルタと電話したときにこう思います。「ひょっとして、僕が加納マルタと話をすることはもう二度とないのではないだろうか、これを最後に彼女は僕の前から完全に姿を消してしまうのではないか」と。そして、加納クレタに与えたクミコの服を、加納マルタがクリーニング屋に預けて加納マルタの人格は姿を消します。この小説におけるクリーニング屋は「こちら側」と「あちら側」の境目を示しています。クミコは、クリーニング屋に寄ってから、主人公のもとを去ります。加納マルタもクリーニング屋に寄ってから、その人格を消滅させてしまいます。
 第3部の終わりで主人公が加納クレタと夢で会話したときに、「『加納マルタはあれからどうなったのかな?』」と主人公が尋ねても加納クレタはそれには答えず、哀しそうな顔をするだけです。 

 ② 加納マルタは「どちらの側」にいる?
 第2部でワタヤノボルと加納マルタの3人で会話をした後、主人公は加納マルタに「あなたはこの件に関しては、いったいどちらの側についているんですか」と聞き、加納マルタは「どちらの側でもありません」と言っています。これは少しわかりにくい回答です。なぜなら、加納クレタを精神的に汚したワタヤノボルのことを加納マルタの人格は憎悪しており、決してワタヤノボルの側に立つことはないからです。

「でも岡田様におわかりいただきたいのは、加納マルタは基本的には岡田様の味方だということです。何故なら私は綿谷ノボル様を憎んでいますし、加納マルタは何よりも私のためを思っている人間だからです。加納マルタはたぶん岡田様のためにそれをしていたのだと私は思います」

と加納クレタは言っています。

 しかし、加納マルタ・クレタは、主人公が今の状態でクミコを取り戻そうとするのは、極めて生命を危険にさらす行為になることが分かっているので、これを勧める気もありませんし、できればやめた方がいいと思っています。

「いいですか、岡田様、もっとひどいことにだってなったのです」

 だから、「この件に関しては」主人公の側に立っているわけではありません。また、加納マルタの人格は主人公のためにというより加納クレタのために動いています。

 ③ 加納クレタの「壁抜け」
 ちなみに、第2部の終わりで加納クレタは足に泥をつけないでどうやって主人公の部屋まで来たんでしょうか?井戸から「壁抜け」をして来たということだと思いますが、彼女が「壁抜け」できる能力を示すためにこの描写はあるのでしょうか?新しい人格を獲得するために「壁抜け」をする必要があったという意味なのでしょうが、ちょっとよくわかりません。

 ④ 加納クレタの誘い
 加納クレタは主人公に一緒にクレタ島に行かないかと言ってきます。「悪」との対決の回避です。もし未来に「悪」と対決するとしても、現在の主人公には力がなく、どこかで力と資格を得る必要があります。

「ここに残っていると、岡田様の身にはいつか必ず悪いことが起こります」(中略)「とても悪いことです」

 しかし、「悪」との対決の回避をすることは、クミコを取り戻すことをあきらめるということです。
 主人公は選択を迫られます。この選択で主人公は人生の岐路に立たされています。「悪」との対決は極めて危険な行為であり、もっと「良くないことが起こる」可能性があります。それも極めて高い可能性です。また、実際にクミコを取り戻せたとしても、その人は「元のクミコの人格」であるとは限りません。

 このため、「悪」との対決の回避は、これはこれで現実的な選択といえます。これまでの村上春樹作品の主人公はたぶん、妻が去ったとしても追いかけたり、待ったりはしなかったと思われます。特に妻から二度と戻る意思がない手紙を送られた後では。
 しかし、この小説の主人公は「声にならない声で。言葉にならない言葉で」クミコが主人公に助けを求めていることに気が付きます。問題はもっと深く隠されており、主人公は彼女を取り戻すために、真相を解き明かすことを決意します。

 ⑤ 加納クレタの子供
 第3部の加納クレタの夢で、彼女は胸に赤ん坊を抱いて、「この子供の名前はコルシカで、その半分の父親は僕で、あと半分は間宮中尉なのだ」と言っていますが、この子供は現実にいるのでしょうか。どちらともいえませんが、この後、主人公が笠原メイに「もし僕とクミコのあいだに子供が生まれたら、コルシカという名前にしようと思っているんだ」と言っていますので、象徴的な夢であって現実ではないのかもしれません。
 この小説は子供が「ねじまき鳥(間宮中尉・オカダトオル)」の後継者となるか、「ねじ緩め鳥(ワタヤノボル)」の後継者として奪い去られるかの戦いでもあります。

 

14.笠原メイ、死への好奇心 
 笠原メイは、「死への好奇心」にとりつかれた少女です。死への好奇心はバイクに乗った男の子を殺し、そして井戸の縄梯子を引き上げ、主人公は生命の危機にさらされます。

「私はただなんとかそのぐしゃぐしゃに近づきたかっただけなの。私は自分の中にあるそのぐしゃぐしゃをうまくおびきだしてひきずりだして潰してしまいたかったの。そしてそれをおびきだすためには、本当にぎりぎりのところまで行く必要があるのよ。(中略)ねえねじまき鳥さん、私には世界がみんな空っぽに見えるの。私のまわりにある何もかもがインチキみたいに見えるの。インチキじゃないのは私の中にあるそのぐしゃぐしゃだけなの」

 井戸に下り、無意識世界に深く潜っていくということは「死に近付く」ということでもあります。異界に行くことと同じですので、無意識世界に潜るときは現実世界に戻ってこれるように、「こちら側で」誰か待っている人間が本当は必要ですが、主人公は特に待つ人もなく井戸の底に入っていきます。そこには非常な危険があります。主人公はひょっとして笠原メイに待ってくれる役を期待したのかもしれませんが、それは無理な話というものです。彼女は主人公の恋人でもなんでもないわけです。かえって、彼女は縄橋子を引き上げて異界から主人公が戻れないようにして、より危機に近付くようにします。しかし、真実を解き明かすためには主人公は深く潜り、「死に近付く」必要があったのかもしれません。

 でも、なんか主人公は呑気ですね。多分加納クレタが助けにこなかったら本当に死んでいたと思います。主人公が自分の「死」にあまり真剣に考えていない分、「死」について考える登場人物が必要なのでしょう。彼女は「ぐしゃぐしゃ」を捕えたくて主人公に近付きます。そして主人公が苦闘しているのを見て、まるで自分のために戦っているような気分になります。主人公は、自分のため、奥さんのために戦っているのに、いろいろな人がいろいろな物を主人公に託していきます。彼女もその1人です。

「死への好奇心」にとりつかれた彼女は非常に危うい存在ですが、第3部でこの地を離れてかつら工場で仕事をすることで回復していきます。

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