謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「海辺のカフカ」書評④

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

8.「呪い」をくぐり抜ける

(1)「夢の中で責任が始まる」
 この小説では夢や想像力が重視されます。大島さんは「想像力の欠如した人間」を「うつろな人間」として嫌い、警戒します。


「しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない」

 また、カフカくんは「ぼくが何を想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことんだ。」と独白します。

 しかし、この小説で書かれる「夢の中で責任が始まる」というのはけっこう重い言葉です。
 この小説は、想像や夢の世界で、あるいはメタフォリカルな意味で呪いを遂行すことによって、現実に呪いを遂行することを回避し、呪いを打破するという流れになっています。想像や夢にも重みがあり、夢の中の自分という「もうひとりの自分」が自分の中に存在することを意識し、認めなければいけません。そして、自分の中の「もうひとりの自分」を拒否している限りは「呪い」を打破することはできない、ということが「夢の中で責任が始まる」という意味だと思われます。

 しかし、ここで「責任」という言葉を書いてしまうと、「父を殺したい」という気持ちを持つことや、夢を見ること自体に責任が発生する、そのような想像や夢を見る自分は悪い人間であり許されない人間だと、自分自身を拒否してしまうことにもなりかねないと思います。この小説のメッセージは全く逆です。人間には誰しもそうした「悪」の部分を持っているけれど、自分の中の「悪」の存在を拒否してはいけないという意味だと思われます。自分の中の「悪」と正面から向き合い認めることで、その「悪」を乗り越えることができるという事です。

 もちろん、現実的に「悪」を実行してはいけません。それは「呪い」の成就になります。この小説ではメタフォリカルに「悪」を行うことで「呪い」を打破します。

 「場合によっては、救いがないということもある。しかしながらアイロニーが人を深め大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。だからこそギリシャ悲劇は今でも多くの人々に読まれ、芸術のひとつの原型となっているんだ。また繰りかえすことになるけれど、世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」

(2)「物語」で「物語」を打破する
 カフカくんが、父からかけられた呪いはひとつの運命づけられた「物語」です。これは、カフカくんに仕掛けられたプログラムであり、運命づけられた「物語」を通常の手段で回避することはできません。この「物語」に対抗して打破するには、呪いの物語を内包する新たな「物語」をつくることが必要でした。それが「海辺のカフカ」です。その物語は絵と歌で数十年前から予言され、血や家族を超えた人間たちの繋がりを回復させる世界をつくります。物語の登場人物達は「あちら側」の世界を通じて繋がっています。「あちら側」の世界を通じて本来は関わりのないはずの、カフカくんも、佐伯さんも、ナカタさんも繋がり、呪いを浄化し、回復し、再生していくことができます。

 物語を完成させるために登場人物たちは行動します。カフカくんは呪いから逃げるのではなく、死を選ぶのでもなく、呪いと対峙し、メタファーとして呪いをくぐり抜ける物語の世界を通り抜けていきます。そして、呪いをくぐり抜けたカフカくんは、呪われた世界ではない「新しい世界の一部」になっています。彼が再生していくには、これから新しい「物語」を紡ぎ続けていかなくてはいけません。そのためにカフカくんはこれからも風の音を聴き、絵を見るのでしょう。

 

 以上で「海辺のカフカ」の書評を終えます。

 

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