謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

『ねむり』書評

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*激しくネタバレしていますので、ご注意願います。

 

  村上春樹『ねむり』新潮社、2010年を読了しました。(以下は、1989年「文學界」初出のものではなく、2010年改版の書評ですので、よろしくお願いします。)

 

  では、書評に移ります。

 

1.この作品における「不眠」とは何か?

 この小説の冒頭は「眠れなくなって十七日めになる。」からはじまります。

しかし、実際には十七日も不眠で生きている人間などいません。だから、これは「現実」ではありません。

 

 主人公は最後に「何かが間違っている。」と気が付きます。(太字で書かれています。)つまり、主人公が眠れなくなった十七日間は現実ではなく、「何かが間違っている。」ものです。主人公が「不眠」と感じているものは不眠ではありません。

 

 では、何なのか。筆者は、はじめ主人公が既に死んでいて、死んでいることに気が付かず普段通りの生活をしているのかと思いました。これは、「でも、あるいはそうじゃないかもしれない、私はふとそう思った。死とは、眠りなんかとは全く違った種類の状況なのかもしれない――それはあるいは私が今見ているような果てしなく深い、覚醒した暗闇であるかもしれない。死とはそういう暗闇の中で永遠に覚醒しつづけることであるかもしれない。」(78ページ)と主人公が思ったことの描写からそう思いました。

 

 しかし、それでは最後の男たちに車を揺さぶられる描写の意味が分かりません。この最後の描写から考えると、不眠の状態の主人公の体験している世界は現実の「不眠」の世界ではなく、「夢」の世界なのではないかと思いました。

 

 なんだ、夢オチかよ、ということですが、これはただの夢ではありません。おそらく現実世界の主人公は何らかの理由で昏睡状態にあり、十七日間眠り続けている状態なのでしょう。(十七日間は主人公の主観で現実世界ではそれ以上かもしれません。)夢が醒めるのは、目を覚ましたときです。主人公はずっと昏睡状態にありますので、ずっと目が覚めないのです。この状態は「夢」の中では、夢が覚めない(目覚めない)状態な訳ですから、「眠り」と「起きている」のが逆転して、いつまでたっても「眠らない」状態になります。これが「不眠」の正体です。主人公は、十七日間、「覚めない夢」を見続けているのです。

 

 最後の場面の主人公の車を動かしている二人の男は誰なのでしょうか。主人公が昏睡状態にある「夢」の世界を破壊しようとしているのですから、この二人は、主人公の夫と息子でしょう。夫と息子が病院の病室のベッドで昏睡状態にある主人公に向けて、彼女が目を覚ますように必死に声を掛けているのです。おそらく「何かが間違っている」と自覚した彼女は近いうちに目を覚ますのでしょう。(夢の中で「何かが間違っている」と自覚するのは夢が覚める前触れです。) 

 

(*別の解釈として「疲労感のない不眠=覚醒剤使用の暗喩」という解釈もできるかもしれません。この解釈だと下手なホラー小説より怖いです。まあ、ドラッグを使っても17日間不眠で生きていられる訳ではありませんので、多分この解釈は無いと思いますが。)

 

 2.この小説のテーマは何か? 

 この小説のテーマは、人によって違うと思いますが、私の解釈では「『大人』になってからの『自分探し』とその危機」です。主人公のようにある程度年を取り、結婚もして子供もできた人が、「自分探し」に直面しなければいけないというのは、ある意味ひとつの「危機」です。

 

 若いうち、独身のころは何度でも自分に迷い、「自分探し」をする自由が若者にはあります。しかし、そこから年月が経ち、結婚をして、子どもが生まれ「家庭」が作られ、育児に追われる様になると、大人には社会的な役割(主人公の場合は主婦として)が与えられ、その役割を全うするだけで1日が過ぎていくことになります。結局、毎日の自分の役割をこなしていくだけで、日々が過ぎていき、そのうち消耗していき、「本当の自分のためだけの自分」という物がなくなっていきます。主人公は、前はたくさん小説を読んでいたのに、本もほとんど読まなくなり、お酒も飲んでいたのに、飲めない夫に合わせて飲まなくなり、チョコレートも食べなくなります。そうやって生活は摩耗していきます。

 

 しかし「大人」には、「本当の自分」を探している暇などありません。「大人」が家族の役割を捨て、「自分探し」をするのは家庭を崩壊させます。具体的には、失踪や離婚、あるいはよくありそうなパターンとして不倫があるでしょう。そうやって「本当の自分のためだけの自分」の世界を確保しようとすると家庭は崩壊の危機に陥ります。

 

 主人公は、まさにそういった「本当の自分のためだけの自分」が無くなる危機の時に「不眠」(実は昏睡)になります。そうして家庭の妻や母の役割もこなしつつ、「不眠」によって「本当の自分のためだけの自分」の時間をも獲得することになります。

 

 普通の場合、「自分探し」は身近な人から遠く離れないと成り立たないものです。ところが、主人公は「不眠」によって「役割としての(本当ではない)自分」の時間も演じつつ、同時に「本当の自分のためだけの自分」の「時間」を獲得することによって、「自分探し」を行うことができるようになります。

 これはある意味ズルい、「間違っていること」です。現実には不眠が続くと人間は生きていません。現実的には有り得ない時間を獲得して、主人公は「自分探し」を可能にします。間違った時間の獲得は、それなりの代償が伴うはずです。このため、おそらく主人公は死の際にいます。

 

「本当の自分のためだけの自分」の時間を獲得した主人公がすることは、『アンナ・カレーニナ』を読むとか、プールを全力で泳ぐとか、夜中に一人でドライブするとか、ブランデーを飲むとか、チョコレートを食べるとか、その程度のたわいのないものです。しかし、主人公は、日々の役割を果たし続けているうちに、その程度のささやかなことでさえも消耗してできなくなっていたのです。

 

 また、主人公はあまり見たくなかった現実を見ることになります。夫がだんだんと醜くなっていくであろうことが分かったり、この先息子が大きくなれば自分はそれほど真剣に愛せないようになるのではないかと予感したりします。

 

 おそらく最後に主人公は目覚めるのでしょうが、その後の展開は決して平穏なものではないと思われます。彼女は永い夢の中で「本当の自分のためだけの自分」に目覚めてしまったからです。「本当の自分のためだけの自分」に目覚めた後の人間を描いた小説は数多くありますので、作者は主人公のその後を語りません。主人公の読んでいた小説が、主人公のその後を暗示しているような気がして気が滅入ります。