謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

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「1Q84」書評②~ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープル

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 この小説で重要な概念として、ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープルがあります。ビッグ・ブラザーはジョージ・オーウェルの『1984年』で使われた言葉です。

ねじまき鳥クロニクル』で出てくる「根源的な悪」ワタヤノボルは、メディアを使って大衆を扇動しようとしているソフィストケイトされたビッグ・ブラザー候補の観がありますが、『1Q84』では、作中の戎野が「『この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ』」(BOOK1 第18章)と言っているように、1Q84年にはビッグ・ブラザーは存在し得ません。

 

 これは、『ねじまき鳥クロニクル』の執筆時と、『1Q84』執筆時とでは時代の変化があったためで、この間の大きな事件として9・11アメリカ同時多発テロ事件(2001年)とその後の対テロ戦争があります。また、大きな変化としてインターネットの飛躍的な発達があります。このような大きな事件と変化の衝撃を受けて、作者はこれからの時代の「根源的な悪」は「ビッグ・ブラザー」的なものではなく、「リトル・ピープル」的なものになるという洞察をしています。

 

 では、リトル・ピープルとは何なのでしょう。これは、前に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ⑤~「根源的な悪」 - 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(色々ネタバレしていますのでご注意願います。)で述べたように、「無名の人間達による、無数の悪意の集積」のことを指します。もっと広い意味では「集合的無意識」と解釈してもよいかもしれませんが、この小説ではリトル・ピープルは主に「悪」の意味で使われていますので、「無名の人間達による、無数の悪意の集積」でよいかと思われます。

 

 作者がこの概念を思いついたのは、やはりインターネットの発達が大きな理由でしょう。それより前の時代に比べてネットにより無名の人達の持つ無数の悪意はあっという間に集積し、広範囲に伝播していくことを容易なものとしています。その勢いは無視できるものはありません。

 しかし、そうした悪意の発信源が、ビッグ・ブラザーのような独裁者であるかというとそういう訳ではありません。ネットでは誰でも悪意の発信源になれるのです。また、悪意の発信者は特別な地位を持つ訳ではなく、皆の悪意の代理人に過ぎません。大衆の悪意に逆らえばあっという間に代理人の地位から引き摺り下ろされ、次なる悪意の生贄になるだけの存在です。

 

 ただし、この「ファンタジー」小説の中ではリトル・ピープルは人間の悪意のようなぼんやりした物ではなく、実体を持って登場してきます。

 また、リーダーが「『我々は大昔から彼ら(筆者注:リトル・ピープル)と共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明なものであったころから』」(BOOK2 第13章)と言っている通り、リトル・ピープルは太古から存在していますのでインターネットにより発生した訳ではありません。昔から魔女狩りのように「無名の人間達による、無数の悪意の集積」が暴走して凄惨な事件が起こることはありました。しかし、リトル・ピープルの暴走の危険性は、現代文明において加速度的に増殖しているのです。

 

 なぜ、この小説の舞台が1984年なのか?ジョージ・オーウェルの小説にかけてというのももちろんありますが、まずオウム真理教の前身である「オウムの会」が始まった年であるためです。そして、今日インターネットと呼ばれているネットワークの日本における実質的な起源であるJUNETが運用された年は1984年です。ある意味後世に影響を及ぼす事象の根源の年であった1984年を舞台にしようと作者は考えたのだと思われます。

 

1Q84』に出てくる「根源的な悪」である『さきがけ』のリーダー深田保は、もはや独裁者(ビッグ・ブラザー)のような他人を扇動し操作するような地位ではなく、リトル・ピープルの代理人に過ぎず、むしろリトル・ピープルに支配された奴隷と言ってもいいかもしれません。あるいは、フレイザーの『金枝編』に出てくる「惨殺される王」です。

 

 「『歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか?その時代にあっては王とは、人々の代表として<声を聴くもの>であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その<声を聴くもの>を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力のバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界においては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。(後略)』」(BOOK2 第11章)

 

 彼は苦痛に満ちた代理人の地位を捨て死を願いますが、リトル・ピープルは、代理人の地位を辞めるのであれば、他の代理人(後継者)を出すことを要求します。深田保がドウタたちと交わる儀式は、後継者を生み出すためだと思われますが、リトル・ピープルの期待に反して、既にリーダーの生殖能力は失われており、無駄な儀式になっています。だから、リトル・ピープルは新たに後継者を探し出してもらう必要がありました。

 リーダーはリトル・ピープルの取引に乗ったふりをして、反リトル・ピープルを対抗させるための自作自演の計画を立てます。主人公である天吾と青豆は、リーダーの仕組んだ反リトル・ピープルの計画に巻き込まれていきます。

 

 リトル・ピープルの発生及び、リトル・ピープルに対抗するためにリーダー(及びふかえりと戎野)が計画し行動した経過を以下に辿ってみます。

 

① 10歳のふかえり(深田絵理子)が、偶然のきっかけでリトル・ピープルを召喚してしまいます。盲目の山羊は共同体の中の生贄(スケープ・ゴート)の象徴です。山羊がふかえりの不注意で死ぬことによって「通路」が開き、リトル・ピープルが新たな生贄を求めて向こう側からこちら側の世界に姿を現します。彼らは山羊の死体の口から登場します。(1977年?)(BOOK1 第6章)

 

② リトル・ピープルは、リーダーをレシヴァ=受け入れるもの、ふかえりをパッシヴァ=知覚するものとして、彼ら代理人を通じて『さきがけ』を支配します。(BOOK2 第13章)

 

③ リーダーは、ふかえりを施設の外に逃げ出させリトル・ピープルの支配が及ばないようにします。(これも同じくふかえり10歳、1977年?)

 

④ そして7年の歳月が経ち、リーダーはその力を失っていきます。

  後継者を求めるリトル・ピープルは、「母親」として青豆を1984年から1Q84年の世界に召喚します。

 

⑤ 同じ頃、ふかえりとアザミが『空気さなぎ』の本を書きます。

 

⑥ 小松に『空気さなぎ』の書籍化計画を持ちかけます。仕掛け人はふかえり、アザミと戎野です。

 この計画は天吾には小松の発案のように説明されますが、実際には戎野の方からこの計画を持ちかけたのではないかと思われます。話がとんとん拍子に進み過ぎなのです。小松がふかえりの写真をあらかじめ持っていました。また、天吾が先生と面接する前から結果がうまくいくという自信があり、仕事をすぐに取り掛かるように言って、ポケットマネーでワープロを買わせていることも、この推測を裏書きします。天吾に対しては、小松は自分の発案であるかのように振る舞っていますし、戎野も自分から持ちかけているのを天吾にはおくびにも出しませんが、それはこの計画が仕組まれたものであることを隠すためです。

 後継者の「父親」である天吾もこの計画に巻き込むのも、初めから計画の中に組み込まれているというか、天吾を巻き込むことがこの計画の大きな目的の1つです。

 

 天吾はBOOK2 第22章でふかえりに「『つまり君は僕がレシヴァであることを知っていて、あるいはレシヴァの資質を持つことを知っていて、だからこそ僕に『空気さなぎ』の書き直しをまかせた。君が知覚したことを、僕を通して本のかたちにした。そういうことなのか?』(*)」と聞きます。

 ふかえりから返事はありませんが、その前に(ふかえり)「『わたしたちはふたりでホンをかいたのだから』」、(天吾)「『そのときから僕は、知らないままレシヴァの役を果たしていたということ?』」、(ふかえり)「『そのまえから』」「『わたしがパシヴァであなたがレシヴァ』」という会話があります。この会話の流れから考えると、天吾の「『つまり~』(*)」以下の推測は当たっていると思われます。

 

 戎野は、深田保の消息がわからない振りをしていますが、実際にはふかえりを通して消息を知っており、保の意を受けてこの計画を実行しています。

 ふかえりも、これが保の意を受けた先生の計画であることを知っています。天吾も小松を通して計画を知っているはずだと思っているので、天吾が電車の中で先生(戎野)のことを聞いても「今更どうしてそんなことを訊くのか」「この人は何を言っているのだろう」という顔をします。もっとも老獪な戎野は、天吾には知らない振りをしますが。(BOOK1 第8章)

 

⑦ 一方で、リーダーはドウタであるつばさをセーフハウスに行かせることで、老婦人の注意を「さきがけ」に仕向け、教祖の暗殺を計画させます。

 

⑧『空気さなぎ』の本が発行されベストセラーになることでリトル・ピープルの秘儀が明らかにされ、その物語はリーダーによると「『リトル・ピープルの及ぼすモーメントに対抗する抗体としての役目を果た』」すことになります。(BOOK2 第13章)

 

 そして、リトル・ピープルが腹を立てて声を出さなくなります。坊主頭(隠田)はBOOK3 第18章で「『声はもう彼ら(筆者注:『さきがけ』)に向かって語りかけることをやめてしまった』」「『そしてその不幸な事態は、小説『空気さなぎ』が活字のかたちで発表されたことによって生じたものなのです』」と言っています。秘儀は秘されているからこそ力を発揮します。このため、代理人であるリーダー深田保の力は更に失墜し、急速にその肉体は滅びに近付く事となり、新たな後継者が至急に望まれることになります。

 

 リトル・ピープルに対抗するには、代わりの「物語」を作って対抗することが必要です。このため、天吾を新たなレシヴァ、ふかえりをパシヴァとして「反リトル・ピープルの物語」が創られることになります。ふかえりは天吾に「『わたしたちはひとつになっている』」「『ホンをいっしょにかいた』」と言います。(BOOK1第18章)

 

⑨ つばさは小型爆弾で犬を殺し、翌日姿を消します。(「『近寄っても犬が吠えない誰かが』」犬の紐を解いて殺しました。(BOOK2 第3章)この記載からセーフハウスの内部の人物の犯行だという事がわかります。)その後、つばさは『さきがけ』の施設に回収されたと思われます。

 

⑩ あゆみが殺されます。あゆみを殺したのは、教団関係者なのか赤の他人かは不明です。(おそらく赤の他人だと思われます。しかし、そこにはリトル・ピープルの作用がからんでいるのかもしれません。)リーダーはあゆみが殺されることを予知しつつ見殺しにします。リーダーがあゆみを見殺しにした理由は、第一にあゆみが『さきがけ』の事を嗅ぎまわっていたことと、第二に青豆にあゆみを見殺しにした事を知らせることによって青豆を逆上させ、リーダーを殺す決意を固めさせるためです。

 

⑪ 青豆に自分を殺させます。

 

⑫ 同じ雷の夜に天吾がふかえりと交わります。青豆が「処女懐胎」します。代理人の後継者が誕生することになります。ふかえりは、この時天吾に「『リトル・ピープルはもうさわいではいない』」と言っています。(BOOK2 第14章)これは、リトル・ピープルが後継者の懐胎を望んでいたことを示しています。

 

 

⑬ 最後に、天吾を守るために青豆が自殺します。青豆のお腹の中にいる後継者の胎児も死に、リトル・ピープルの望んでいた後継者も消失し、リトル・ピープルは力を失います。

 

「そして彼女はその王であり預言者である存在を暴力的に消去することによって、世界の善悪のバランスを保ったのだ。その結果、彼女は死んでいかなくてはならない。でもそのとき彼女は取り引きをした。その男を殺害し、事実上自分の命を放棄することによって、天吾の命が救われる。それが取り引きの内容だ。もしその男の言ったことを信じるなら、だ。」(BOOK2 第15章)

 

 ①~⑫までリーダーの計画はうまくいきましたが、最後の⑬の計画だけはうまくいかず、青豆は自殺しませんでした。

 リーダーの言葉には嘘があり、「『そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にしか開かない。帰り道はない』」「『もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ』」「『しかしそれは簡単なことではない』」「『(中略)率直に言えばおおむね不可能なことだ』」(BOOK2 第13章)と言って、1Q84年から脱出する方法はなく、天吾を守るためには自分は死ぬしかないと青豆を絶望させ自殺へ導こうとしています。

 

 嘘というより、知らないだけなのではないかという意見もあるかもしれませんが、この世界の構造を知り尽くしているリーダーが知らない訳が無いと思うのですね。

 しかし、すんでの所で青豆は「遠い声」を耳にして、新しい命を宿したこと無意識のうちに感じて、自殺を思いとどまります。(BOOK3 第2章)

 この青豆を自殺に追い込む計画は、リーダー単独による計画で、ふかえりと戎野はこの計画を知りません。

 

 

 BOOK2 第23章の銀色のメルセデス・ベンツに乗っていた女性は誰なのでしょうか?結局BOOK3ではその後(夢の中を除いて)登場しません、と思ったら最後(BOOK3 第31章)で、高速道路で空車のタクシーをつくる役でちょこっと出てきますね。(相手の中年男性はBOOK1 第1章のタクシーの運転手でしょうか。)

 私は、彼女は1Q84年世界における赤坂ナツメグなのではないかと思いました。BOOK3の当初の構想では、『ねじまき鳥クロニクル』で主人公が赤坂ナツメグに助けられるように、青豆もナツメグに助けられ、リトル・ピープルと対決する「反リトル・ピープル・クロニクル」のような「大きな物語」に巻き込まれていくというストーリー展開も考えられていたのかもしれません。しかし、青豆はナツメグの助けを拒否し、自分で(老婦人とタマルの助けも受けていますが)問題を解決しようとします。

 

 そして、最終的に天吾と青豆は再会を果たし1Q84年から脱出します。

 

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