謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「アフターダーク」書評

 

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページに戻る)

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」への言及があります。

 

 それでは、「アフターダーク」の書評を始めます。

 この小説はいくつかの大きな謎があり、それを解いていかないと小説の意味はよく分からないかと思われます。正直初めてこの小説を読んだ時の感想は「訳の分からない小説だ」ということでした。今回再読してみて、訳の分からなさは変わりませんが、とりあえず読み解いていきたいと思います。

 以下に、この小説の大きな疑問点を上げていきます。

Q1 高橋は何者か?

 高橋は、この小説の主人公の1人のような感じで登場しますが、その言動はかなり不審です。これについては、後で詳細に見ていきます。

Q2 白川は、この小説の他のパートとどのような関係があるのか?

 ホテル「アルファヴィル」で娼婦に暴力を振るった白川はわかりやすい「悪」です。しかし、この白川は他のパート(マリのパート、エリのパート)と関係がありそうな雰囲気を漂わせながら、実際には彼女らと特に接触することもなくすれ違い続けます。この白川のパートは他のパートとどのような関係があるのでしょうか?

Q3 エリのパートで出てくる「顔のない男」の正体は?

 エリのパート自体が訳の分からない事だらけですが、この中で一番謎の存在が「顔のない男」です。彼がエリをテレビの中の「別の世界」に閉じ込めている張本人だと考えられますので、彼の正体を解き明かす事がこの小説の謎を解く鍵になります。

 また、マリについては以下の疑問が出てきます。
Q4-1 なぜ、マリは高橋と朝御飯を食べなかったのか?
 この小説は、表面的には夜中の街で、男の子(高橋)と女の子(マリ)が出会うボーイ・ミーツ・ガールのストーリーです。しかし、高橋が朝御飯に誘ったり、デートに誘ったりしても、マリは特に関心を示さず断わってしまいます。高橋はかろうじて留学先の住所は教えてもらえますが、将来結ばれるような予感はないまま2人は別れ、意外な程あっさりとした幕切れでこの小説は終わります。結局この2人の出会いとは一体何だったのでしょうか?

Q4-2  なぜ、マリは「自分が取り返しのつかないことをしてしまった」という気がしたのか?
 朝に、眠っているエリの側でマリは涙を流し、唐突に「自分が取り返しのつかないことをしてしまった」という感情を抱きます。この感情は一体何なのでしょうか?

 そして、最後にこの小説の一番大きな謎、エリについての謎が残ります。
Q5-1 エリはなぜ、眠り続けているのか?
Q5-2 エリは目覚めるのか?

 それでは、ひとつひとつ謎を検討していきます。

Q1 高橋は何者か?について見ていきます。
 具体的には、高橋には以下のような多くの不審な点があります。

Q1-1 高橋はなぜ「しかし君のお姉さんは美人だったよな」と過去形で言ったのか?
Q1-2 高橋はなぜ「ハワイの3兄弟」の話をマリにしたのか?
Q1-3 高橋はなぜ「君のお姉さんに僕からよろしくって伝えておいてくれるかな」と言ったのか?
Q1-4 高橋はなぜ、マリをカオルに紹介したのか?
Q1-5  高橋はなぜ、裁判の傍聴のときに「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかも」と思ったのか?
Q1-6 高橋はなぜ、映画の「ある愛の詩」のあらすじを話したときに嘘をついたのか?
Q1-7 高橋がアルファヴィルに一緒に行った女の子はエリだったのか?
Q1-8 高橋はなぜ「エリに関心がある」と言ったときに「深い」という言葉を省いたのか?
Q1-9 高橋はなぜ、電話の「逃げ切れない」のメッセージを彼個人に直接向けられたものであるように感じたのか?
Q1-10 高橋はなぜ、マリをデートに誘うのか?

 さて、ここでひとつの仮説を考えてみたいと思います。突飛な考えですが、高橋と白川は同一人物だと考えられないでしょうか?そう考えると色々つじつまが合うような気がします。
「何を言ってるんだ。高橋と白川とは外見も年齢も全然違うではないか。同一人物な訳ないだろ。」という意見が確かに常識的かと思いますが、村上春樹の「ファンタジー小説」では、同一人物であっても人格が変わると外見が変わってしまうのかもしれません。このため、この仮説が成り立つか検証してみます。

 しかし、読み進めていくとやはりこの仮説は成り立たないことが分かります。11章(3時42分)にマリと高橋は公園のベンチで会話をしています。12章(3時58分)ではじめ白川はオフィスにいますが、オフィスを出てタクシーに乗り(途中セブンイレブンに寄りますが)哲学堂の自宅に向かいます。しかし、13章(4時9分)でもマリと高橋は引き続き公園で会話しています。白川がオフィスにいる時刻には、高橋はマリと一緒に公園にいたことになります。このため、高橋と白川は同一人物ではあり得ません。「海辺のカフカ」の大島さんが言っているように「いかなる人間も同時にふたつのちがう場所に存在できない」、これは村上春樹の「ファンタジー」世界においても、絶対の法則だと思われます。

 では、「Q2 白川は、この小説の他のパートとどのような関係があるのか?」について検討してみましょう。
 なぜ、はじめに高橋と白川が同一人物であるかの検討をしたかというと、「Q5-1 エリはなぜ、眠り続けているのか?」の解答を探すためです。
 エリのパートを読むと、おそらく「顔のない男」が、真夜中にエリを別の世界に閉じ込めていている人物であろうことが示されています。そして、その別の世界の部屋は、白川が働いているオフィスにそっくりで、会社(veritech)のネームが入った鉛筆が落ちています。この描写から「顔のない男」が白川の可能性が高いという仮定ができます。

 しかし、白川とエリの接点は少なくともこの小説の中ではありません。接点のない白川が、なぜ「顔のない男」になってエリを「別の世界」に閉じ込める必要があるのでしょうか?この「いかにもありそうな」仮定は見直す必要があります。そもそも「別の世界」が白川のオフィスそっくりで、会社のネームが書かれた鉛筆が置いてあるなど、あからさま過ぎで伏線にもなっていません。せっかく「顔のない男」にして正体がわからないようにしている意味が無いではありませんか。「別の世界」の描写は「顔のない男」は白川だと誤解させるための作者の罠だと思われます。

 では「顔のない男」の謎を解いていきます。
Q3 エリのパートで出てくる「顔のない男」の正体は?
A3 これはエリと接点のある「男」だということになります。小説の中でエリと接点のある男は1人だけです。それはもちろん高橋です。(高橋の不審な点については後述します。)

 もちろん、veritech、オフィスの描写や男の外見等を重視して「顔のない男」はやはり白川なのだ、という意見もあるかと思いますし、それを完全に否定する根拠もありません。しかし、白川=「顔のない男」説だと、白川とエリの接点の描写が小説の中には(ほのめかしや暗示を含め)全くない以上、その接点については「創作」しないと話が繋がりません。このブログの「謎解き」の際には、小説中の描写から読み解けるものは読み解き、できる限り「創作」はしないことを一応ルール(いやパロディ小説とか書いててどこがルールだと突っ込まれそうですが(笑))としていますので、ここでは高橋とエリの接点や話全体の繋がりを重視し、「顔のない男」=高橋説を取ることとします。


「顔のない男」=高橋という事になると、Q2の解答は以下のとおりになります。
Q2 白川は、この小説の他のパートとどのような関係があるのか?
A2 
 ① 「顔のない男」を白川だと誤解させるための罠。
 ② 高橋には、白川のような別の(悪の)側面があることを暗示している。
 ③ 「アルファヴィル」という場所は、「暴力」や「悪」を噴出させる特別な意味のある場所であることを示している。

 白川は、高橋には別の側面があることを暗示するために登場しています。わかりやすい「悪」である白川は、実際にはマリにもエリにも関わることも接触することなく小説は終わります。これだけでは、なぜ白川が登場したのか意味が不明です。エリとマリに接触したのは高橋です。そして、エリは「顔のない男」によって、別の世界に閉じ込められ損なわれています。そして「顔のない男」は、この小説で唯一エリと接点のある男である高橋なのです。そうでなければ、この小説の別々のパート(マリのパート、エリのパート)の話が繋がりません。

 白川は高橋の別の側面であることを暗示しているのだと考えると、この「わけのわからない」小説を解くひとつの道筋が見えてきます。私は初読の時、先程検討したように「高橋と白川は同一人物の別々の人格を表しているのではないか?」との印象を抱きました。実際には彼らが同一人物であることはあり得ませんでしたが、白川の描写を通じて、この小説には書かれていない高橋の別の側面がある事を想像する事ができます。

 では、「Q1 高橋は何者か?」に戻ります。
Q1-1 高橋はなぜ「しかし君のお姉さんは美人だったよな」と過去形で言ったのか?
A1-1 高橋は、エリが「別の世界」に閉じ込められており、こちら側の世界にはいない(眠っている)ことを知っていたのだと思われます。彼自身が「顔のない男」である以上当然です。このため、つい過去形で話をしてしまったのです。

Q1-2 高橋はなぜ「ハワイの3兄弟」の話をしたのか?
A1-2 「本当に何かを知りたいと思ったら、人はそれに応じた対価をはらわなくてはならないということ」を言いたかったのだと思います。そして、自分は1番上の兄のような人間であることを言いたかったのでしょう。彼は「知的好奇心」のためには何をしてでも、大きな対価を払ってでも行動しようとする人間なのです。

Q1-3 高橋はなぜ「君のお姉さんに僕からよろしくって伝えておいてくれるかな」と言ったのか?
A1-3 高橋はいろいろ言っていますが、つまりは彼女が眠っていて直接話すことなどできないことを既に知っているからでしょう。

Q1-4 高橋はなぜ、マリをカオルに紹介したのか?
A1-4 マリと接点を保つためと、「アルファヴィル」にマリを関連づけるためだと思われます。「アルファヴィル」はA2で触れたようにこの小説では特別な場所です。高橋はマリに「知的好奇心」を抱き、再び接点を作りたいと思っています。

Q1-5  高橋はなぜ、裁判の傍聴のときに「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかも」と思ったのか?
A1-5 これは、高橋自身に別の「悪」の側面が存在しているからです。彼が自分の別の側面を意識あるいは記憶しているのか、していないのか、この小説の描写ではわかりにくいですが、白川が自分が暴力を振るったことを自覚している描写や、A1-2、A1-3の通りエリが別の世界に閉じ込められていることを高橋がおそらく知っている描写から、自分の別の側面の行動は記憶し、意識しているものと考えられます。

Q1-6 高橋はなぜ、映画の「ある愛の詩」のあらすじを話したときに嘘をついたのか?
A1-6 高橋は、映画の「ある愛の詩」のあらすじを語るとき大きな嘘をついています。(この映画のあらすじはネットでいくつも出ていますので、映画を見ていない方であらすじを知りたい方はネタバレ自己責任で探してみてください。)高橋は「最後の方はよく見なかったんだ」とごまかしていますが、最後の方を見ていなくても分かる明らかな嘘です。なぜ、高橋はこんな嘘をついたのでしょうか?

 これは、どちらかというと読者に向けた「高橋は嘘つきだ」という作者からのヒントなのだと思われます。一見、高橋は無害そうな性格に見えるように描写されていますが、実際にはこの人物には隠された別の「良くない」人格があるよということを、このエピソードで暗示しているのです。

Q1-7 高橋がアルファヴィルに一緒に行った女の子はエリだったのか?
A1-7 エリです。これは、高橋がマリに、アルファヴィルに一緒に行った相手の女の子はエリではないかと聞かれた時の態度でわかります。「高橋は驚いて顔を上げ、マリの顔を見る。小さな池の水面に広がっていく波紋を見るように。」また、高橋と一緒にアルファヴィルに行ったのがエリではないとしたら、この小説のそれぞれのエピソードは何の繋がりもないバラバラの話だということになってしまい、本当に意味不明の話になってしまいます。

 A1-4、A2でも書きましたが、ラブホテルである「アルファヴィル」は真夜中に悪と性欲と暴力を噴出させる磁場のようなはたらきをしています。普段は普通のサラリーマンである白川は、このホテルで娼婦に暴力をふるいます。そして、高橋はおそらくアルファヴィルでエリを決定的に損ねます。

 アルファヴィルで起こったことがきっかけでエリは、別の世界に閉じ込められ眠り続けます。高橋がどのようにしてエリを決定的に損ねたのか、具体的な描写が書かれていないので不明ですが、白川のように肉体的に暴力を振るったという事ではないと思います。おそらく彼がエリに対する好意や愛情ではなく「知的好奇心」でエリとセックスしたこと自体が、結果的に彼女を精神的に決定的に損ねたのではないかと思われます。(「アルファヴィルでは、『セックス』はあるが『情愛』と『アイロニー』はない」)

 高橋はエリからホテルに誘われた時、エリの精神が既に危うい状態にあり、おそらく彼女とセックスをすることで彼女の精神は更に決定的に損なわれるであろうことを知っていました。なぜ、エリが損なわれるであろうことを知りつつ、高橋はエリを損ねずにはいられなかったのか?それは彼の「知的好奇心」です。エリのような美しい女性とセックスするという体験をしてみたい「好奇心」は、そのことで彼女が損なわれるとしても、高橋としてはやらずにはいられなかったわけです。もちろん、そこには「性欲」も含まれているでしょうが、彼の言う「知的好奇心」は、それよりももっと強い「欲望」を示しているのだと思われます。

Q1-8 高橋はなぜ、「エリに関心がある」と言ったときに「深い」という言葉を省いたのか?
A1-8 おそらく、高橋はエリに対して以前は「深い」関心(知的好奇心)があったのですが、彼女とセックスをして、その結果彼女を別の世界に閉じ込めることで、彼の「知的好奇心」の目的は達成され、以前ほどの深い関心がなくなってしまったのだと考えられます。そして、新たな標的(マリ)が現れたので、そちらに関心が移っています。

Q1-9 高橋はなぜ、電話の「逃げ切れない」のメッセージを彼個人に直接向けられたものであるように感じたのか?
A1-9 A1-5でも述べたように、高橋は自分に別の「悪」の側面があり、そのことを自覚しています。自分のこの「悪」の側面はいつか誰かに裁かれることになり、自分は「逃げ切れない」ことになるのではないかと、彼は予感しています。

Q1-10 高橋はなぜ、マリをデートに誘うのか?
A1-10 高橋の別の側面である人格がマリに「知的好奇心」を抱き、マリを次の標的にしようと思ったからです。

 次に、マリについての謎を解いていきます。
Q4-1 なぜ、マリは高橋と朝御飯を食べなかったのか?
A4-1 Q1-1~10で見てきたように、一見高橋は善良で無害そうな青年として登場しますが、細かく見ていくと不審な言動が多すぎます。マリも具体的にどうとははっきり言えないが、高橋という人間にちょっと疑問を感じているのだと思います。このため、高橋が朝御飯に誘っても断るなど距離をとろうとしています。

 また、高橋は以前はエリに対して「深い」関心を持っていたはず(ダブルデートのときもそれは明らかだったのでしょう)なのに、なぜか関心を失ってしまい、妹の自分に関心を急に向けることをマリは不思議に思ったのだと思われます。特にエリが眠り続けているという異常な状況を告白した後にも関わらず、高橋はエリの話を聞こうとはしていますが、その後もエリよりはマリに関心を示しているように振る舞っています。もし、彼が本当に「良い人間」であるならば、眠り続けているエリをどう助けようかと、まずそれを考え、マリに話すはずです。ところが、彼が言ったことはマリをデートに誘うことでした。かなりズレています。こうした高橋の言動により、マリは彼女自身も自覚しないままに高橋に対する警戒感を抱いたのだと考えます。

Q4-2  なぜ、マリは「自分が取り返しのつかないことをしてしまった」という気がしたのか?
A4-2  高橋に留学先の住所を聞かれ、マリは住所を書いてしまいます。これによって、一旦切れかけた高橋との接点が復活してしまい、彼らが再び出会い、高橋によってマリが損なわれる可能性ができてしまいました。「僕はこれでけっこう気が長いんだ」
 マリは、自分自身が自覚しないままに自分を危険な状況に置いてしまった予感がして、なにか「自分が取り返しのつかないことをしてしまった」と感じたのです。

 最後に、エリについての謎を見ていきます。
Q5-1 エリはなぜ、眠り続けているのか?
 エリはかなり前から、問題を抱えていました。マリが話したエレベーターに閉じ込められた事件から、彼女はマリを守るために強くならなければならないと決心しました。しかし、そのことは過剰に強い架空の自分を作ることを自らに課し、その「作られた自分」と本当は弱い自分との乖離は広がり彼女を病ませることになります。

 そうした時に、偶然エリは高橋と再会し、彼女は話を一方的に話した後、衝動的に高橋をホテルへ誘います。しかし「アルファヴィル」で彼が行ったことは、エリを癒すことではなく、その歪みを増幅させ彼女を損ねることでした。そして、高橋は自分の行為によって彼女を損ねてしまったということを自覚しています。彼は本当は彼女と寝るべきではなかったのです。高橋がエリにした行為は、自分自身で気が付いていなかった「悪」の側面が自分にも存在することを彼に自覚させます。

 これは、なんとなく「ノルウェイの森」のテーマのひとつ(「主人公は直子と寝るべきではなかった(そのことをきっかけに彼女は損なわれたのだから)」「しかし、結局そういう状況に置かれたら、主人公は必ず直子と寝るだろうし、それは避けようのない事だったのだ」)を再び問い直しているのかな、という気もします。自覚的にせよ、無自覚にせよ、人間というのは自分がどんなに善良な人間だと思っていても、自分の行動の結果、他人を傷付けて損ねてしまう場合がある、そうした「悪」の側面を誰しも持っているという事がこの小説のテーマの1つなのかもしれません。

 しかし、「ノルウェイの森」の場合は主人公は直子を愛していますが、高橋はエリを愛していません。そこは大きな違いです。そして、高橋はそうした自分の「悪」の側面から、結局目をそらしているように見えます。もうエリを救うために自分にできることはない(むしろ彼女を決定的に損ねたのは自分だ)と思い、エリへの関心を失って、その代わりに妹のマリに興味を示している描写を見ると、やはり高橋は本質的に「良くない」人間なのだと言わざるをえないでしょう。

Q5-2 エリは目覚めるのか?
 この小説の最後の方の「しかしやがて、エリの小さな唇が、何かに反応したように微かに動く。(中略)今の震えは、来るべき何かのささやかな胎動であるのかもしれない。」という描写はエリがやがて目覚めるであろうことを予兆しています。

 なぜ、エリは目覚めるのか?彼女は、高橋に損なわれることによって、別の世界に閉じ込められます。しかし、現実の世界で「作られた自分」を演じ続けることに疲れた彼女の無意識は、自分が損なわれ別の世界に閉じ込められる事を密かに望んでいました。彼女が別の世界に閉じ込められ眠り続けているのは、彼女にもそれを望む心が一部にあったからです。
 
 しかし、エリは目覚めようとします。マリが涙を流して眠っているエリに口づけをしたとき、エリは、マリが高橋の「知的好奇心」の標的になり、狙われていていることを感じます。エリは、高橋によってマリが損なわれてしまうかもしれない危機が迫っていることを予感しました。エリは、マリを守るために目覚めなければいけないと強く決意したのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「海辺のカフカ」書評 目次

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

☆「海辺のカフカ」書評 目次

 

書評①

1.カフカくん

書評②

2.佐伯さん

3.大島さん

書評③

4.「ジョニー・ウォーカー」

5.ナカタさん

6.ホシノくん

7.「カーネル・サンダーズ」は何者?

書評④

8.「呪い」をくぐり抜ける

「海辺のカフカ」書評④

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページに戻る)

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

8.「呪い」をくぐり抜ける

(1)「夢の中で責任が始まる」
 この小説では夢や想像力が重視されます。大島さんは「想像力の欠如した人間」を「うつろな人間」として嫌い、警戒します。


「しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない」

 また、カフカくんは「ぼくが何を想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことんだ。」と独白します。

 しかし、この小説で書かれる「夢の中で責任が始まる」というのはけっこう重い言葉です。
 この小説は、想像や夢の世界で、あるいはメタフォリカルな意味で呪いを遂行すことによって、現実に呪いを遂行することを回避し、呪いを打破するという流れになっています。想像や夢にも重みがあり、夢の中の自分という「もうひとりの自分」が自分の中に存在することを意識し、認めなければいけません。そして、自分の中の「もうひとりの自分」を拒否している限りは「呪い」を打破することはできない、ということが「夢の中で責任が始まる」という意味だと思われます。

 しかし、ここで「責任」という言葉を書いてしまうと、「父を殺したい」という気持ちを持つことや、夢を見ること自体に責任が発生する、そのような想像や夢を見る自分は悪い人間であり許されない人間だと、自分自身を拒否してしまうことにもなりかねないと思います。この小説のメッセージは全く逆です。人間には誰しもそうした「悪」の部分を持っているけれど、自分の中の「悪」の存在を拒否してはいけないという意味だと思われます。自分の中の「悪」と正面から向き合い認めることで、その「悪」を乗り越えることができるという事です。

 もちろん、現実的に「悪」を実行してはいけません。それは「呪い」の成就になります。この小説ではメタフォリカルに「悪」を行うことで「呪い」を打破します。

 「場合によっては、救いがないということもある。しかしながらアイロニーが人を深め大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。だからこそギリシャ悲劇は今でも多くの人々に読まれ、芸術のひとつの原型となっているんだ。また繰りかえすことになるけれど、世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」

(2)「物語」で「物語」を打破する
 カフカくんが、父からかけられた呪いはひとつの運命づけられた「物語」です。これは、カフカくんに仕掛けられたプログラムであり、運命づけられた「物語」を通常の手段で回避することはできません。この「物語」に対抗して打破するには、呪いの物語を内包する新たな「物語」をつくることが必要でした。それが「海辺のカフカ」です。その物語は絵と歌で数十年前から予言され、血や家族を超えた人間たちの繋がりを回復させる世界をつくります。物語の登場人物達は「あちら側」の世界を通じて繋がっています。「あちら側」の世界を通じて本来は関わりのないはずの、カフカくんも、佐伯さんも、ナカタさんも繋がり、呪いを浄化し、回復し、再生していくことができます。

 物語を完成させるために登場人物たちは行動します。カフカくんは呪いから逃げるのではなく、死を選ぶのでもなく、呪いと対峙し、メタファーとして呪いをくぐり抜ける物語の世界を通り抜けていきます。そして、呪いをくぐり抜けたカフカくんは、呪われた世界ではない「新しい世界の一部」になっています。彼が再生していくには、これから新しい「物語」を紡ぎ続けていかなくてはいけません。そのためにカフカくんはこれからも風の音を聴き、絵を見るのでしょう。

 

 以上で「海辺のカフカ」の書評を終えます。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「海辺のカフカ」書評③

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページに戻る)

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

4.「ジョニー・ウォーカー」

 この小説の「根源的な悪」は、「ジョニー・ウォーカー」です。「悪」は、田村カフカの父親に雷が落ちた時にとりつき、父親は芸術的な才能を得る事と引き換えに、自分の魂を「悪」に売り渡します。「悪」は、彼に「笛」をつくる事を命じます。彼は猫を殺しその魂を集めて「笛」をつくります。「笛」は「悪」の集積です。最終的に集積された「悪」を更に集積して作られる「もっと大きな笛」は、多くの人を殺戮し損ねる巨大な「悪」のシステムとなることでしょう。そして、このシステムはいったん動き出すと、笛を作った彼自身にも止めることができません。

 ジョニー・ウォーカーは「こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の基準を超えたところにある笛なんだ」と言っていますが、「世俗の基準を超えた」ものを勝手に規定し、その力を他者に強制して影響を及ぼし損ねること自体が、紛うことなきひとつの巨大な「悪」です。ジョニー・ウォーカーの言っていることは詭弁です。 

 夫の「悪」の側面を見せられた妻は、恐怖を感じカフカくんの姉を連れて、父親とカフカくんの前から去ります。彼を置いて行ったのは、父親と血がつながっているカフカくんにも恐怖を抱いたからです。息子も父親のようになるのではないか、という恐怖が母親を捉えました。

 この小説では、田村カフカの母親は出てきません。田村カフカは、同じ境遇(おそらく息子を捨てた)の佐伯さんと邂逅し交わることで、自分の母親も自分を捨てたことで傷付いていたことを感じて、自分の母親をゆるします。

 カフカの父親は「悪」をなし続けることに倦み疲れます。そして、息子が「悪」を継承することを望みます。そのため、自分の息子に「呪い」をかけます。「呪い」どおり自分の息子が自分を殺せば、「呪い」は成就し「悪」は息子に継承されます。それこそが、彼の望みです。
 カフカ君は、自分の父親から「呪い」から逃げ出します。もちろん、それであきらめる父親ではありません。

5.ナカタさん

(1)山梨の森にUFOが来る
 なぜ、山梨の森にUFO(「銀色の光の飛行体」は、未確認飛行物体なので「UFO」とします)が来たのか?これは、岡持先生の夫が夢の中に現れたのが原因だと思われます。夫の魂は遠くの戦場から文字通り千里を超えて彼女の夢の中に現れ、「あちら側」の世界に共に行くことを望みました。しかし、この小説の他の箇所(「雨月物語」の引用)でも検討されているとおり、生きている魂が千里を超え飛ぶのは小説世界においてすら極めて難しいことです。この無理な飛翔に普通の人の魂は耐えられず、結局その死が代償になります。

 彼女は夫の呼びかけに答え、夢の中で「あちら側」の世界に行くことを望みます。この事によって「あちら側」への世界の入り口の扉が開きます。この時は入り口の扉はUFOの形をとって現われました。しかし、「入り口」は先生を連れていくのではなく、ナカタさんを連れて行きました。これは、父親から虐待を受けていたナカタさんが、この世界から離れたい望みを持っていたからです。疎開して両親と離れて新しい環境に入れられ、それをひとつの機会としてなんとか心を開きこの世界と折り合いをつけようとしていたときに、おそらく他人として最も信頼していた先生から暴力を受け、その衝撃でこの世界にいたくない、どこか別の世界へ行きたいという感情が極めて強くなったのです。そしてUFOが「あちら側」に連れていけたのは1人だけでした。1番強い感情を持ったナカタさんが「あちら側」に連れて行かれ、先生は連れて行かれませんでした。

(2)ナカタさんとカフカ君はなぜ出会わないのか?
「ジョニー・ウォーカー」はナカタさんにカフカくんの父親を殺させます。カフカくんの父親をナカタさんが殺したときに「悪」はナカタさんにとりつきます。「空っぽ」のナカタさんは「悪」を体現する存在にはならず、「悪」の運び手になります。「悪」にとってナカタさんはあくまで通路でしかありません。「悪」はナカタさんを使って、カフカくんを追いかけます。カフカ君にとりつくためです。ナカタさんは、導かれるようにして四国に向かいます。

 ナカタさんとカフカ君が出会うとどうなるか?サードインパクトが起こります。というのは、冗談ですが。ナカタさんとカフカ君と出会った場合、「悪(ジョニー・ウォーカー)」は何らかの手段(例えば父親の幻覚を見せて錯乱させるなど)を使ってカフカくんにナカタさんを殺させると考えられます。そして、ナカタさんが殺されたとき「悪」はカフカ君にとりつきます。「父殺し」の呪いは成就し、「悪」の継承は成功します。

 この小説の登場人物達は、物語の全貌を知らないままに、このカタストロフの回避のために動きます。彼らは「呪いの打破のための物語」の一部になります。特に大島さんのとったカフカ君を森に避難させる行動が「呪い」の回避のために必要不可欠な行動でした。この行動により、ナカタさんとカフカくんの接触は回避され、また「悪」の打倒の布石となります。

 歌の「海辺のカフカ」の「ドアにかげに立っているのは/文字をなくした言葉」の歌詞と、佐伯さんのナカタさんに言った「あなたは、あの絵の中にいませんでしたか?海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足を海につけている人として」の言葉が「海辺のカフカ」の絵と歌によって、予言された物語にナカタさんがあらかじめ組み込まれていたことを示しています。

(3)ナカタさんはなぜ死んだのか?
 「悪」は、ナカタさんを使ってカフカくんに接触しようとしましたが、佐伯さんと大島さんの行動によって失敗します。このためナカタさんから抜け出して、入り口の石から「あちら側」へ行き、自力でカフカ君に接触しようとします。(カラスと呼ばれる少年との会話の描写で、「ジョニー・ウォーカー」が「森」のすぐ側まで来ていることが書かれています。)佐伯さんとの邂逅で力を使い果たしたナカタさんは死にます。ナカタさんが「ジョニー・ウォーカー」を殺した時、彼の体の中に「悪」が侵入しています。入り込んだ「悪」によってナカタさんの体は決定的に損なわされ、「悪」がその体から抜け出そうとすると生命が維持できない状態にさせられていたのだと思われます。

「悪」の本体がその実体を現実世界にさらけ出すことはめったにありません。普通は人間の心の中に潜んでいます。通常は「悪」には実体がなく、そうであるがゆえに死ぬことはありません。宿主は殺すことはできても、他の宿主に移るだけです。しかし、ナカタさんが死んだ事によって、運び手である宿主を失った「悪」が「どこかへ行く」ためにはその実体をさらけ出さなくてはいけませんでした。実体をさらけ出した瞬間が「悪」の本体を倒す唯一の「千載一遇」のチャンスです。ホシノくんが推測したとおり、入り口の石が閉まらずに開けっ放しになっていたのは、「悪」をおびき寄せるための罠です。
 
 しかし、逆に言うと「悪」の実体を現実世界におびき出すためには、ナカタさんは死ななければならなかったのです。そうしないと「悪」は倒されず、この物語は完結されませんでした。これを一面からみるとナカタさんは「物語」の完結のために犠牲(いけにえ)になったのだともいえます。しかし、ナカタさんは「空っぽ」な人間で、本体は「あちら側」にありました。彼は、物語の中でカフカ君を救う役割を行い、死んで「あちら側」に行くことにより、本来の自分に統合され「普通のナカタさん」になりました。物語で役割を果たし、他人を救うことが、彼が今まで「こちら側」の世界にいた意味なのだといえます。カフカくんを救うことにより、ナカタさんもまたある意味救われたのです。 

6.ホシノくん

 ホシノ君はこの小説では重要な役割を果たします。「入り口の石」をひっくり返して入り口を開き、またしかるべき時に閉じ、ナカタさんの資格をひきついで「悪」を圧倒的偏見をもって強固に抹殺します。これだけすごい事をやっているにも関わらず、全然深刻そうに見えません。「なんだ坂、こんな坂」って感じですね。彼がナカタさんとの旅を通じて成長している風にも読めますが、実際どうなんでしょう。彼がこの小説で成長していたとしても、この物語の前から成長の「核」となる物はすでに彼の中にあったのだと思います。

 重要なのは、彼はこの「物語」の外側の人間であるということです。彼はカフカくんにも、「悪」の因縁にも全く関わりがない。主人公と出会うことすらない。物語に元々組み込まれてはいないのに、偶然ナカタさんに出会いナカタさんを助けます。外側からふらっと偶然に来た普通の人間が、最終的に「悪」を倒すという英雄的行為をさらっとやってのけてしまいます。その英雄的行為は誰も褒めてはくれない。だけどそんな事はまったく気にせず、(おそらく)飄々と日常世界へ戻っていきます。いや、実にクールです。
 

7.「カーネル・サンダーズ」は何者?

 デウス・エクス・マキナです。「呪いを打破する物語」を完結させるために現れた機械仕掛けの神です。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「海辺のカフカ」書評②

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページに戻る)

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

2.佐伯さん

ノルウェイの森」、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」へのネタバレを含む言及があります。ご注意願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)佐伯さんは、カフカくんの実の母なのか?
「佐伯さんは、カフカくんの実の母なのか?」というのが、この小説の大きな謎のひとつとなっています。結論から言うと、佐伯さんは主人公の実の母親ではありません。この小説のテーマは、父からの呪いをいかに現実に成就させず、乗り越えていくのかということです。そのためには呪いから逃げるのではなく、メタフォリカルに呪いを遂行することで、呪いを打破していかなければなりません。現実に呪いを遂行した場合は、呪いの成就であり、呪いに敗北したということになります。

「呪いの打破のための物語」というこの小説の構造上、佐伯さんは実の母親ではありえません。しかし、彼女が他人であることをカフカくんに言ってしまうと、それは他人であるという「事実」で確定してしまい、メタファーとして機能しなくなります。このため、佐伯さんは、カフカくんの仮説を仮説のままで閉じ込めておくしかありませんでした。

 佐伯さんの過去について書かれた書物は、すべて燃やされて不明になってしまいました。しかし、佐伯さんはおそらく自分の子供を捨てた過去があります。彼女はその罪を背負って生きていました。カフカくんに許されることで、佐伯さんは自分の罪をゆるされます。罪を背負った人間と呪いを背負った人間が出会い、交わります。少年は母を赦し、母は息子の呪いを浄化します。

(2)「海辺のカフカ」の絵と歌
 「海辺のカフカ」の絵と歌は「予言」です。佐伯さんは19歳のころから、この物語の未来を予言していました。「海辺のカフカ」の絵が描かれたのは12歳のときですから、予言はもっと昔から機能していたことになります。彼女の作った歌は絵から読み取ったもので、2つのコードは「あちら側」の世界から手に入れたものでしょう。そして、全ては絵と歌の予言のとおりに物語は進みます。

 15歳の少女の佐伯さんは、今の恋人との閉じられた世界がいつまでも続くことを願いました。そのとき入り口の石(扉)が偶然開きます。(「あちら側」の佐伯さんが15歳であることから、入り口の石が開いたのは佐伯さんが15歳の時だと分かります。)入り口を開いたきっかけは小説には書かれていませんが、彼女は雷に打たれたのだと思います。閉じられた世界を永遠に続けたいという彼女の願いは、入り口の扉が開いたことによって成就しました。

 しかし、彼女はその大きな代償を払います。おそらく入り口の扉を開いたときに、その通路を利用して「根源的な悪」が「現実世界」に浸食してきてしまったのだと思われます。その「悪」は生贄を求め、その結果として甲村青年が殺されて死にます。そして現実世界に浸食した「悪」は「雷」になり宿主を探します。その「雷」に打たれた人間は「根源的な悪」にとりつかれ「悪」を自分の中に抱えることになります。(一般的な意味で雷に打たれた人が根源的な「悪」になるわけでは当然ありません。この小説では、たまたま「悪」が雷の形をとり、田村カフカの父親にとりついたということです。)

 おそらく彼女が雷に打たれた人間に対するインタビューの本を書いたのは、自分が解き放ってしまった「根源的な悪」がとりついた人間を探していたのだと思います。しかし、カフカ君の仮説とは違って佐伯さんは、彼の父と会うことはありませんでした。彼女が田村さんという名前は知らないとすぐ言えたのは、この「悪」を探す作業が彼女にとって重要であり、その詳細まで昨日のことのように覚えていたからです。

(3)「あちら側」に行ってしまった人間に生きている意味はあるか?
 佐伯さんは、半身が「あちら側」へ行ってしまった人間です。彼女の本体は「あちら側」で「過去」とともに生きており、現実世界の彼女は空っぽで残像のようなものに過ぎないともいえます。「過去の世界」に生き「現実世界」に背を向ける人間に生きている意味はあるのか?という問いかけが、この小説のもう1つのテーマだと思われます。

 このテーマの元々のはじまりは「ノルウェイの森」です。直子は「過去」に引き寄せられ、現実世界で生きることを選ばず自殺します。彼女が自殺をせずに、現実世界で生き続けることができるようにするためには、どうしたら良いのか?という問いに対するひとつの回答が「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でした。(この事については「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の書評で触れました。)

 彼女が「あちら側」に「自分の世界」をつくり、過去の思い出の中で生きていくことができれば、彼女は現実世界でも生きていけます。しかし、彼女の心は「あちら側」に行ってしまっており、「こちら側(現実世界)」にはありません。この現実世界の彼女は本当の彼女といえるのか、外見上は確かに生きていますが、これは生きているといえるのか、現実世界に生きる意味はあるのか?という問いがでてきます。

 現実世界に生きる意味がないのならば、この「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の回答は、現実世界における「生」は「死」とたいして変わらないという話になってしまい、彼女の自殺をとどめるものではなくなってしまうということになります。だから、作家としてはこの回答が有効なものなのか問い直す必要がありました。

 佐伯さんをこの世界にとどめたのは、予言でした。「海辺のカフカ」の絵と歌は予言です。彼女は予言から、いつか甲村青年の生まれ変わりである少年(田村カフカ)が助けを求めて、この地を目指してやってくることを知っていました。そして、彼女が入り口の石を開いたときに解き放ってしまった「悪」との決着をつける必要がありました。

 カフカの受けた「呪い」は、佐伯さんが解き放ってしまった「悪」に因果の元があります。そうしたメタフォリカルな意味で、佐伯さんはカフカくんの「母」であり、彼女の罪の結果として、カフカくんの受けた「呪い」があります。彼女は「母」として自分が解き放った「悪」と対決し、「息子」の「呪い」を浄化しなければいけませんでした。

 そのため、長きにわたる失踪を経て佐伯さんは高松に戻り、甲村記念図書館の管理責任者になります。いつかやって来る彼を待つために。また、おそらくやってくる「悪」と対決するために。輪廻転生というものが本当に存在するかはわかりません。しかし、人間は長い年月の中で、自分が失ってしまった人間と「同じような人間」に出会います。彼・彼女が迷い惑っているときに、生き続けていれば彼らを救うことができるかもしれません。彼・彼女を救うことによって、救った人間もまた救われます。彼らを救うことが、半身が「あちら側」に行ってしまった人間がこの現実世界で生き続けていく意味になります。
 
 大島さんは、佐伯さんは死にかけていていると言っています。列車が駅に向かっているみたいに。(これは佐伯さん自身も言っていたことですが。)これは結局事実でしたが、大島さんはその列車をカフカくんと考えていました。しかし、実際にはその列車はナカタさんでした。彼はカフカくんの代わりに「悪」がとりついた父親を殺し、罪を引き受け、「悪」をその体に受け入れて、佐伯さんを訪れたのでした。ナカタさんと佐伯さんが出会うことによって、ようやく彼らはそれぞれの物語での役目を終えることができました。

 最後に佐伯さんは「あちら側」へ行き、カフカくんにこちら側(現実世界)に戻るように言います。「15歳の佐伯さん」ではない「現在」の彼女が生きたまま「あちら側」に行くことはできません。彼女は死んで「あちら側」に行き、カフカくんを現実世界へ戻します。これが彼女の最後のなすべきことでした。

 佐伯さんがカフカくんに残した「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」の言葉は、「ノルウェイの森」の直子の言葉を思い出させます。愛する人を失い残された人間がこの現実世界でどのようにして生きていけばよいのか、という問いに対する作者の答えとしてこの言葉はあります。

3.大島さん

 大島さんは、境界線上に立っている人間です。性同一障害であることも、この小説における境界線上に立つ人間であることを示しています。そのため、半身が「あちら側」にいる佐伯さんの気持ちも理解できますし、「呪い」から逃げてきたカフカくんの気持ちも理解できます。こうした理解者がいなかった場合、カフカくんの旅はより困難なものになっていたでしょう。

 境界線に立ちながらも彼(彼女)は、佐伯さんやナカタさんとは違って、心も身体も全て現実世界にあります。大島さんやさくらさんが現実世界の碇になって、カフカくんは現実世界に足場を残すことができました。

 最後のあたりで、大島さんは再び森へカフカくんを送り出します。このタイミングが絶妙で、これによりこの物語はカタストロフを迎えず、最悪の結末は回避される事になります。これについては後述します。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「海辺のカフカ」書評①

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページに戻る)

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 それでは、「海辺のカフカ」の書評を始めます。

 

1.カフカくん
羊をめぐる冒険」へのネタバレを含む言及があります。ご注意願います。(「羊をめぐる冒険」の書評はこちらです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)生まれ変わった鼠
 この小説のテーマは、父から悪の継承の呪いをかけられた少年が、いかにその呪いを打破するかということです。
 「『悪』の継承という父の呪い」というテーマは、「羊をめぐる冒険」における鼠のテーマでもありました。「羊をめぐる冒険」において、「父」から「羊」の継承の呪いをかけられた鼠は、自殺することで悪の継承を拒否しました。父の呪いを自らの死をもって打破したという結末です。

 村上春樹は、この小説で再び「父の呪い」をテーマとします。今回は主人公が鼠のように自殺することもなく、悪を継承することもなく、父を現実に殺すこともなく、いかに呪いを打破して現実世界で生きていけるのかを問う小説です。ある意味今回の主人公は「生まれ変わった鼠」といえます。この作品で鼠は生まれ変わり、再び父の呪いの試練を受けます。
 もちろんこの物語世界では、カフカくんは甲村青年の生まれ変わりでもあります。

 

(2)父の呪い
 この小説における主人公に対する父の呪いは「(お前はいつか)父を殺し、母と姉と交わる」でした。この呪いから逃れるべく主人公は15歳の誕生日に家出をし、遠く四国まで逃げます。人生のあるポイントを過ぎてしまうと「呪い」は自分の中で作動してしまい、自分ではどうすることもできなくなってしまうと思ったからです。カフカくんにとって、15歳がそのぎりぎりのポイントでした。

 しかし、距離を離れることによって「血の呪い」を消すことはできません。血は自分の体に流れているものだからです。自分の家族や血、遺伝子というものを捨て去って全く新しい白紙の人間になることは残念ながらできません。
 「呪い」は父から遠く離れても影のように付いてきます。逃げることではこの呪いを打破することはできず、その呪いをメタフォリカルにくぐり抜けなければ打破することができない、というのがこの小説の結論です。ただし「逃げる」ことは重要です。主人公が「逃げる」ことによって物語が動き出し、その物語は主人公をあるべき場所へ導くことになります。

 

(3)さくらさん
 さくらさんは、メタフォリカルな意味での主人公の姉です。「袖振り合うも多生の縁」で、前世はカフカくんのお姉さんだったのかも知れません。物語あるいは現実の人生でも、人生のある局面ではこうした他者との思わぬ出会いと助けで救われる場合があります。
 さくらさんは「現実世界」の人間です。現実世界に待っている人間がいることによって、主人公は「あちら側」の世界から「こちら側」に戻ってくることができます。

 

(4)カラスと呼ばれる少年
 「カラスと呼ばれる少年」は、カフカくんの頭の中にいる想像上の友達です。孤独で友達のいない少年は、自分の頭の中に想像上の友達をつくり彼と会話します。主人公は「ある物」を擬人化してそれを「カラス」と呼んでいます。「ある物」とは主人公が家から持ち出したナイフ(鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ)です。

少年カフカ」という「海辺のカフカ」に関する読者の感想や質問のメールと、それに対する村上春樹の回答内容を綴った雑誌がありますが、ある読者の質問の回答で、村上春樹は「『カラスと呼ばれる少年』は折りたたみ可能なので、バスに乗るときには折りたたんでリュックに入れているわけです」と書いています。(冗談ぽく書いてありますが、本当の意味だったわけです。)

 カーネル・サンダーズが、チェーホフを引用して「もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」と言っていますが、このナイフが実際に使われるということは、主人公が現実に父を殺し、呪いが成就するということになってしまいます。呪いを打破するためには、この小説ではナイフは現実に使用されずに、あくまでメタファーにとどまらなければいけません。下巻の「カラスと呼ばれる少年」の章でカラスと呼ばれる少年は、ジョニー・ウォーカーを切り裂き殺そうとしますが、幻想に過ぎない少年はジョニー・ウォーカーを殺すことはできません。彼は「幻想の存在」にとどまらなければいけないのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「スプートニクの恋人」書評②~「欠落部分」を想像する

(目次に戻る)(初めてこのblogに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

(前のページ(「スプートニクの恋人」書評①)に戻る)

 

*激しくネタバレしています。「ねじまき鳥クロニクル」への言及があります。

 

 それでは、今回はこの小説の「欠落部分」は何であるかを検討してみたいと思います。


「欠落部分」を解き明かす鍵として、すみれの残した2つの文書があります。
 第1の文書は、この小説では関連して語られている部分がありません。第2の文書は、彼女が「蒸発」した直接の動機(「あちら側」へ行ってミュウの半身を取り戻す)であろうと考えられます。しかし、どちらも彼女が残した文書であることを考えると、第1の文書も「欠落部分」を埋める大きな鍵になることは間違いありません。そして、第1の文書と第2の文章は繋がっています。

 

 第1の文書で語られる「夢」の内容は「『実の母親』だとされてきたすみれの母親は、本当は『実の母親』ではない」ということです。すみれは、自分の両親が自分に全く似ていないことから、薄々自分の両親は「実の両親」ではないのではないかと思っており、それが夢に出てきたのだと思われます。
 この第1の文書と第2の文書を繋げて考えると、ひとつの結論が出ます。それは、ミュウはすみれの実の母親なのだということです。そして、この小説の「欠落部分」は以下のようであると想像できます。

 

            ☆    ☆    ☆

 

 当時17歳だったミュウは、性的に奔放な生活(「ずいぶん自由にセックスを楽しんだ時期もあった」)を送っていました。やがてその当時のボーイフレンドの子を彼女は妊娠します。すみれの父親にあたる人間は、ありそうなパターンとしては妻子のある男だったと考えられます。(また、すみれの父親はフェルディナンドに面影がよく似ていたのではないかと思われます。)

 

 17歳のミュウは中絶したくはなかったけれど、シングルマザーになって子供を育てて、ピアノの道をあきらめることも嫌でした。そのとき、おそらくすみれとミュウが初めて会った結婚式の時の従妹の親から(ミュウと、彼あるいは彼女はその当時から親しかったのだと思われます。)、自分の兄あるいは弟の夫婦が養子を欲しがっており、生まれてくる赤ちゃんを彼らの子供として引き取りたいという話をされます。彼の妻は心臓に生まれつきの構造的欠陥があり、体が弱く子供が産める体ではなかったのです。(すみれが父親に全然似ていないということが強調されていることから、すみれが父親とミュウのあいだの子供であるという可能性は無いと思われます。)
 ただし、子供を引き取る以上この子は「実の子」として育てたいので、ミュウが実の母親と名乗り出てはいけないし、子供にも会ってはいけないことが条件とされました。
 ミュウは生まれた赤ちゃんを、現在のすみれの父親とその時の妻に引き取らせます。彼女は自分の子供を捨てて、ピアノの道を選びました。

 

 そうして8年後、ミュウは自分が捨て去った「過去」に復讐されます。性的に奔放な自分、妻子ある男と付き合って生まれた子供、そうした過去の自分を捨て去り封印して、彼女は新しい人生を送っていました。しかし、「過去の自分」自身に「自分の過去を忘れるな」ということを突き付けられます。フェルディナンドとの出会いが「過去の自分」を呼び覚まします。おそらく、フェルディナンドがすみれの父親に似ていたことがきっかけだったと思われます。フェルディナンドは「ねじ緩め鳥」(「ねじ緩め鳥」については(ねじまき鳥クロニクル」書評①)をご覧ください)です。なぜ、彼が彼女と出会い、彼女の「ねじを緩めた」かはわかりません。彼は、たまたま彼の力を行使できる人間を見つけたことで「気まぐれ」でその力を使ったような気がします。「ねじ緩め鳥」が彼女の封印した「過去の自分」を引き摺り出したのです。「過去の自分」は、彼女の半分と「わたしの黒い髪と、わたしの性欲と生理と排卵と、そしておそらくは生きるための意志のようなもの」を奪い去り、「あちら側」へ消えてしまいました。彼女は自分が封印した「過去」に復讐されます。

 

 そして月日は流れ、すみれが22歳になったときに、ミュウは、すみれの父親にすみれの面倒をみたいと話します。今までの罪滅ぼしの意味なのかもしれません。すみれを引き取ったとき、ミュウが実の母親と名乗り出ないことを条件としていた父親でしたが、すみれも成人し、先妻も亡くなってからしばらくたちます。父親は、そろそろ真実を打ち明ける時期にあるのではないかと考えます。しかし、突然今まで両親と思っていた人間が「実の両親」ではなく、本当の母親(と父親)が別にいると話すとすみれのショックは大きいです。とりあえず、はじめは親子であると名乗らずにミュウとすみれが知り合ってもらい、親しくなってから打ち明けた方がよいと父親は考えたと思われます。しばらくの間親子であることは打ち明けないことを約束して、父親はミュウとすみれを引き合わせることにします。

 

 2人が顔を合わせたのは、すみれの従妹の結婚式です。このシーンをはじめ読んだ時に違和感を抱きました。なぜ、すみれと父親は一緒のテーブルにいないのでしょうか。また、結婚式では普通親戚の席はひとかたまりになることが多いのに、なぜ親戚ではないミュウがすみれの隣の席なのでしょうか。すべてはすみれの父親と(ミュウの友達である)父親の兄弟(あるいは姉妹)が、ミュウとすみれを引き合わせるためにセッティングしたことでした。


 ミュウに髪を触れられたときに、すみれは、初めて湧き上がる感情に戸惑います。それは、実は「母に対する思慕の情」でした。彼女の本能は、事実を知らないまま彼女を「母」と感じ、思慕の情をかきたてたのです。これは、すみれが一度も感じたことがなかった感情でした。しかし、今まで恋愛感情や性欲を理解していなかったすみれは、この初めての感情を恋愛感情あるいは性欲であると勘違いします。

 

 すみれは、ミュウの会社に勤めることになり、そしてイタリア、フランスへ行きます。フランスでミュウは「過去の告白」をしますが、もちろんこれが「告白」の全てではありません。次に、彼女らはギリシャの島へ行きます。そこで、すみれの「告白」があり、その後すみれは「蒸発」します。

 

 すみれは、その夜「ぼく」のときと同じく音楽に引き寄せられて、山の上へ行き「あちら側」へ行ってしまいました。音楽が流れている間「あちら側」の扉が開いていました。猫が木の上で煙のように消えてしまったエピソードで分かるように、この小説世界では「あちら側」への扉は思わぬ所で開いています。

 

「あちら側」へ行ってしまったすみれは、記憶を失います。そして、当てどもなく「あちら側」の世界をさまようことになります。すみれの記憶を取り戻したきっかけは、「ぼく」がすみれを待っていることが「あちら側」に行ったすみれに分かったからだと思われます。時期的には「ぼく」が「ガールフレンド」との関係を清算したあたりになるかと思います。記憶を取り戻したすみれは、「あちら側」のミュウ(以下、単に「ミュウ」と書きます)を探し当て、彼女達は出会います。

 

 ミュウは、すみれが自分の娘であることを告白します。彼女は、自分の娘であるすみれを捨てました。そのことによって、ミュウは「過去」から復讐を受け、その半身は「あちら側」に行ってしまいまいました。その「あちら側」のミュウが自分なのだと彼女は言います。そして、過去の罪の意識が「あちら側」の牢獄に彼女自身を閉じ込めたのだと彼女は話します。

 ミュウは、すみれに罪を告白し懺悔します。すみれは、彼女の懺悔を受け入れて彼女を赦します。

 

 自分と一緒に「こちら側」に戻らないかと言うすみれに、ミュウは首を振ります。自分は「あちら側」に長くいすぎてしまったため、もはや「こちら側」に戻ることはできないと彼女は話します。ただ、彼女はすみれに「自分のことを覚えておいてほしい」と願いを言い、彼女はその約束を守ることを誓います。

 

 そして、すみれは思わぬ再会をします。あの、木の上に留まってそのまま煙のように消えてしまった猫とです。猫もまたこの世界に迷い込み「あちら側」のミュウに拾われ飼われていたのでした。猫はすみれに渡され、猫と一緒に彼女は「こちら側」へ帰ります。

 

 「こちら側」への帰り道はミュウが教えてくれたのでしょうか?あるいは、「電話ボックス」は「あちら側」と「こちら側」の境目にあり、2つの世界の出入口なのかもしれません。彼女が、「ぼく」に電話をかけて「告白」し、「ぼく」がそれを受け入れることで、「あちら側」と「こちら側」の通路が開き、すみれは「こちら側」に戻ることができたということかもしれません。すみれは「ぼく」に電話をかけます。「ぼく」が彼女を「夢」の中で待ち続けたから「あちら側」で彼女は記憶を取り戻し、そしてこちら側に帰ってくることができたのです。

 

 今までのすみれの人生は、地に足がついていないものでした。自分の両親が本当は「実の両親」ではないのではないかという思いが、彼女がこの世界で寄る辺のない不安定な気持ちにさせました。だから、彼女はどんな小説を書いても最後まで書き切ることができませんでした。彼女は「あちら側」に行くことで真実を知り、自分の「ルーツ」を見付けることができました。このことによって、初めて彼女は「現実」にしっかり足をつけることができました。それは彼女の再生を意味します。

 

(猫との再会は「想像」というより「創作」です。ただ、猫の失踪の話にはなんらかのオチがつけられるべきなような気がしましたので、書いてみました。)

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)