謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

「スプートニクの恋人」書評①

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*激しくネタバレしています。「ノルウェイの森」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」への言及があります。

 

 それでは、「スプートニクの恋人」の書評を始めます。

 「ノルウェイの森」書評(「ノルウェイの森」書評⑫~この小説の結末は? 参照)でも触れたように、この小説はすみれが「ノルウェイの森」における主人公の立場になり、「ぼく」が緑の立場に入れ替わる小説です。そして緑の立場である「ぼく」は、地獄巡りをしているすみれを待ち、すみれが現実世界に戻って、電話で「ぼく」に告白してきたのを受け入れます。

 

 この小説の構造は以下のとおりとなります。

1.すみれが、ミュウに恋をする。
2.ミュウが、自分の「過去」をすみれに告白する。
3.すみれが、ミュウに告白する。
4.すみれが「蒸発」する。おそらく、ミュウの半身を取り戻すために、「あちら側」へ行ったのだと思われる。
5.「ぼく」がギリシャへ行く。
6.すみれが見つからないまま、「ぼく」は日本へ戻る。
7.「ぼく」が「ガールフレンド」と別れる。
8.すみれが「あちら側」から戻ってくる。

 

 この小説は「こちら側(現実世界)」の世界と「あちら側(異界)」の世界が存在するファンタジー小説です。「あちら側(異界)」とは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終り」のような世界です。

 

 しかし、この小説は語られていない「欠落部分」が多すぎます。
 第1に、ミュウは「過去」について全てを語っているとは思えません。自分が半身を失った事件についてはすみれの第2の文書で語られていますが、その事件が起こった原因があるはずです。しかし、原因はこの小説では語られることはありません。
 第2に、「ぼく」の予想では、すみれはミュウの半身を取り戻すために「あちら側」へ行きます。しかし「あちら側」で何が起こって、どのようにしてすみれが「あちら側」から戻って来られたのかについては全く語られていません。

 

 このように、この小説は重要で大きな「欠落部分」があります。これを語るならば、この小説は現在の2倍の長さになるでしょう。
 なぜこのように、この小説は語られていない「欠落部分」が多いのか?それは、この小説は「すみれの物語であり、ぼくの物語ではない」と書かれつつ、実際には「ぼく」の物語だからでしょう。だから「ぼく」の視点で見えないものは語られません。

 

 ギリシャの島に行ったとき、夜に僕は音楽に導かれて山の上に向かいます。そして「あちら側」に運ばれそうになりますが、僕は「こちら側(現実世界)」に留まり続けます。

 すみれを見つけ出したいのならば、一緒に「あちら側」へ行く選択枝もあるのに、主人公は「こちら側」に留まりました。これは「あちら側」に行ってしまった人間が「こちら側」に戻るためには、「こちら側」で待っている人間が必要だからです。

 これは「ノルウェイの森」の構図と同じです。「ノルウェイの森」の主人公が現実世界に戻るためには、緑が待ってくれることが必要でした。

 また、すみれにとって「ぼく」は「ばらばらになったような変な気持ち」を薄める「現実的効用みたいの」があります。そして「結局のところ」、「ぼく」は「そこから出ていくことをぼくはほんとうには求め」てはいない「現実的な」人間であるため、「こちら側」に留まります。

 

 すみれは消えてしまって、しばらく戻ってきません。これは「ぼく」にすみれを「待つ準備」ができていなかったからです。「ぼく」がすみれを待つには「ガールフレンド」との関係を清算しなければいけません。

 

 「ぼく」と「ガールフレンド」の関係は、当然ですが「正しくありません」。それは、不倫だからというだけではなく、教師と生徒の母親との関係だからというだけでなく、「ぼく」がこの関係の行き着く先に破滅を求めているからです。「ぼく」はすみれと結ばれることがないことに深く絶望していて、この関係がいずれ露見して自分が破滅することを望んでいます。自分が破滅したいのは勝手ですが、そのことに他人の家庭を巻き込んではいけません。それに自らの破滅を願う人間が、誰かを待ち、また、誰かを現実世界に引き戻すことはできません。

 

 そして、第15章で「にんじん」が出てきます。彼はこの小説の重要な人物です。彼はもちろん、自分の母親と「ぼく」との関係に気が付いています。
 この問題を解決するために、彼は万引きをします。万引きをすることによって「ぼく」に警告を送っていたのです。「にんじん」が「ぼく」と直接対決することは、関係が露見することに繋がり、それは「ぼく」自身が望んでいる(自分の家族を巻き込んだ)破滅に繋がります。そのことによって自分の母親も深く傷つきます。彼女も破滅するかもしれません。「にんじん」は自分が傷つき、罪を背負うことで家族を守ろうとしたのです。

 

 本当は「ぼく」は「にんじん」に「殺され」てもおかしくはありません。それが物理的な展開になるか、象徴的な展開になるかはわかりませんが。殺されても仕方のないことを彼はやっています。彼はすみれを待つ資格はおろか、生きている理由も見失っています。そして「ぼく」は自分の破滅に他人を巻き込むような「悪い」人間です。「にんじん」にとって「ぼく」は、自分の家族を崩壊させる明確な「敵」であり、その必要があれば倒すべき「悪」です。実際に「にんじん」は「ぼく」の返答次第では本当に彼を「殺す」つもりだったと思われます。しかし、「ぼく」の率直な「告白」を受け入れ、「にんじん」は彼を赦します。「にんじん」の「赦し」が「ぼく」を再生させます。

 

 この「ぼく」は「良い人間」ではありません。小説の主人公が無条件で「良い人間」であると考えるのは間違いです。こうした「良くない人間」でも生きていける資格はあるのか、誰かを待つ資格はあるのか、ということが問われている小説だといえます。

 

「最後にひとつ」(中略)「こういうことを言うのは失礼かとも思うんですが、思い切って申し上げまして、先生を見ているとどうも何か釈然としていないところがあるんですよ。若くて背が高くて、感じがよくて、きれいに日焼けして、理路整然としている。おっしゃることもいちいちもっともだ。きっと父兄の受けもいいんでしょうね。でもうまく言えないんですがね、最初にお目にかかったときから何かがわたしの胸にひっかかるんです。うまく呑み込めないものがあるんです。べつに個人的に先生にからんでいるわけじゃないんですよ。だから怒らないで下さいね。ただ気になるんです。いったいなにがひっかかるんだろうってね」

 

 この警備員のせりふの前に「教師としては言わせていただければ、常習的な万引きという行為、とくに子供の場合、犯罪性よりは精神的な微妙な歪みから来ているものであることが多いんです」と「ぼく」は言っていますが、「ぼく」そのものが精神的な「歪み」の原因です。「ぼく」にこんな客観的な解説をする資格はありません。警備員が何かがひっかかるのは当たり前です。

 

 いずれにしても「にんじん」が「僕」と「母親」を赦し、「ぼく」と「ガールフレンド」が別れることによって、「僕」はすみれを待つ資格を得ることになります。「子供」が「親」を赦す、というのがこの小説の隠されたテーマです。小学4年生の子供にそんな役目を背負わせるのはかなりきついことです。「僕」が「にんじんのような子供はこれからどんな日々(永遠に続くかと思える長い成長期)を通り抜け、大人になっていくのだろうとぼくは思った。それはおそらくきついことであるにちがいない」と考えているとおりです。もっとも「きついこと」の原因の1つである「ぼく」が言うことではありませんし、ここで語られる「他人事感」は「ぼく」が歪んだ人間であることを示してます。

 

 すみれを待つ資格を得た「ぼく」のもとに、すみれは帰ってきます。このシーンは「夢」ではないのかという意見もあるようですが、「夢」ではなく「現実」です。この小説はすみれが異界へ行って、あちら側のミュウと邂逅し、別れ、「こちら側」で待つぼくの存在をある意味「現実世界」の目印にして、「こちら側」に戻ってくるという構造になっています。

 

 次回は、この小説で語られなかった「欠落部分」が何であるか想像してみたいと思います。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「ねじまき鳥クロニクル」書評 目次

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☆「ねじまき鳥クロニクル」書評 目次

書評①

1.妻が去る
2.無意識世界の戦場・井戸
3.ねじ緩め鳥(ボリス・ワタヤノボル)
4.ねじまき鳥(間宮中尉・オカダトオル)

書評②

5.猫(ワタヤノボル⇒サワラ)
6.本多老人の贈り物
7.間宮中尉・井戸の底の至高体験
8.主人公はなぜ、井戸の底に下りる

書評③

9.顔のない男
10.ギター弾きの男(バットを持った男)
11.クミコの抱えていた問題とは
12.中絶した子供は誰の子供だったのか

書評④

13.加納マルタ・クレタ
14.笠原メイ、死への好奇心

書評⑤

15.「ねじまき鳥クロニクル」、シナモン、語り部
16.シナモンの父親は誰に殺された
17.資格

書評⑥

18.暴力、「根源的な悪」との対決
19.別の解釈、別の世界

「ねじまき鳥クロニクル」書評⑥

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18.暴力、根源的な悪との対決
 208号室で主人公が殴り殺したのは、「悪」そのものであって「ワタヤノボル」本人ではありません。「悪」はおそらく「羊をめぐる冒険」の「先生」のように血溜の形でワタヤノボルの頭の中にあったと思われます。主人公が「根源的な悪」を殴り殺すことによって、血溜は破裂し彼は意識不明となります。なぜ、とどめをささなければいけないというと、彼の体から「根源的な悪」が抜け出て次なる宿主にとりつく可能性があるからです。だから息の根を止めなければ、この話は終わりません。

 この小説は非常に暴力的な小説であり、「根源的な悪」と対決するには「暴力」を使ってでも倒さなければいけないという決意と覚悟があります。かなり過激な小説だといえます。
 ただ、実際にこれを現実世界に当てはめると非常に困難な問題になります。どんな悪人でも殺せば「殺人」になります。悪事を暴いて警察に突き出すのが理想なのでしょうが、「根源的な悪」は巧妙で狡猾であり、なかなかしっぽをださないものです。この小説世界でも、無意識世界で「男」をバットで殴ることによって、ワタヤノボルは意識不明の重体になりますが死んではいません。彼の息の根を止め葬り去るには、クミコが生命維持装置を止めるという現実の「殺人」を行わなければいけませんでした。クミコは逮捕され、刑法上の罰を受けます。
 このことは、重い課題として我々にのしかかります。

 

19.別の解釈、別の世界
 上記でみてきた解釈とは別の解釈も可能です。ちょっと突飛な解釈になりますが、クミコ=電話の女=加納マルタ=加納クレタの4人は同一人物の別の人格であるという解釈も成り立ちます。ただ、この解釈ですと、この物語は今まで解釈した物語とは、全く別の物語と世界の話となります。

 彼女達は同時に主人公の前に出ることはありません。主人公は意識の中で加納クレタと交わりますが、彼女はいつの間にか電話の女に入れ替わっています。また、「加納クレタの体つきはおどろくくらいクミコに似ていた。(中略)二人は背も同じくらいだし、体重もだいたい同じくらいに見えた。たぶん服のサイズだって同じくらいだろう」「服は思ったとおり、全部加納クレタにぴったりだった。不思議なくらいぴったりだった。靴のサイズまで同じだった」「僕は加納クレタと交わりながら、ときどきクミコと交わっているような錯覚にすら襲われた」とあります。
 加納マルタ・クレタの人格の語った彼女達の半生は象徴的なものであり(彼女達にはそれが真実なのですが)現実のものではないことになります。

 上記の解釈ですと、加納クレタが主人公をクレタ島に誘うのは、別の意味合いを持ちます。4つの人格のうち、「彼女」は加納クレタ(であった)新しい人格を主人公に受け入れて欲しいと言ったという話になります。結局主人公は元のクミコの人格を選ぶことになりますが、加納クレタであった新しい人格を選んだ場合(主人公が加納クレタであった新たな人格に「クミコ」の名前を与えた場合)、4つの人格はその新しい人格に統合され、この物語は全く違った結末になっていくことになります。

 

 以上で、「ねじまき鳥クロニクル」の書評を終わります。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「ねじまき鳥クロニクル」書評⑤

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15.「ねじまき鳥クロニクル」、シナモン、語り部
 この小説の第3部でこの物語は、シナモンによって語られる「ねじまき鳥クロニクル」の一部であり、過去の満州から現代につながる「ねじまき鳥」と「ねじ緩め鳥」との戦いの年代記であることが明らかにされます。オカダトオルも、このシナモンの「ねじまき鳥クロニクル」の登場人物の1人にすぎません。シナモンは過去と現在を見通すことができる観察者です。(ただし、彼は未来は見通せません。)それは、最後に主人公を水の満ちた井戸で溺れていることを察知し、井戸から助け出すことができたことからもわかります。観察者であるシナモンの存在があって、この物語は初めてひとつの繋がりを持った年代記として語られることになります。

 シナモンがこの物語を紡ぎだした理由は、祖父の死んだ理由を探るためだったと思われます。祖父はシベリアの炭鉱で深い竪穴に入って作業をしているときに出水があって、溺れ死にます。これだけ見れば単純な事故です。しかし、この事故には因果の根があります。因果の根にはボリスがいます。ボリスによって収容所の炭鉱に無理なノルマが課され、危険な竪穴が掘られたがゆえに祖父は死んだのです。祖父の死因は「根源的な悪」ボリスに繋がっています。

 けれど、おそらく祖父はなぜ自分が死ぬのかわけがわからないまま死んでいきます。しかし、過去と現在を見通すことのできるシナモンはその原因を知っています。彼は「根源的な悪」の存在と、彼によって祖父が死んだことを知っているのです。

 また、後述するように自分の父が「物語」から浸食した「根源的な悪」によって殺されたこともシナモンは、知っています。彼にとっては「根源的な悪」は祖父と父の仇です。彼は「ねじまき鳥」と「ねじ緩め鳥」の戦いの決着を記述し、物語を完成させなければいけません。だから、彼ら(ナツメグ・シナモン)は「ねじ緩め鳥」を倒す「ねじまき鳥(オカダトオル)」を探し出し、彼を助けたのです。

 戦前の満州より「根源的な悪」は出現します。「ねじまき鳥クロニクル」の過去編の登場人物は間宮中尉であり、あざを持った獣医(シナモンの祖父)です。しかし、2人は「根源的な悪」を倒す目的を果たすことができません。これは、「獣医」の目から見るとあらゆる物が無意味に無駄に虐殺され、「敵」を見定めることができなかったためだと思われます。間宮中尉は「敵」を見定めることができたものの、敵は強大であり、また彼が「根源的な悪」を打ち倒すには、資格と力が足りませんでした。間宮中尉は呪いを背負って生き続けます。獣医は、水に飲まれて死にます。

 しかし、彼のあざは「しるし」となって「ねじまき鳥」の後継者(主人公)を見出します。間宮中尉、加納クレタ・マルタ、笠原メイ、ナツメグ、シナモンの思いを受け継いで主人公は「悪」と対決することになります。これが「ねじまき鳥クロニクル」の現代編です。いろいろな人がいろいろな思いを主人公に託しています。主人公は彼らのために戦っているわけではありませんが、主人公が「根源的な悪」と戦っている姿が彼らを救済することになります。

「私が人々を癒し、シナモンが私を癒す。でもシナモンを誰が癒すのだろう?シナモンだけがブラックホールみたいに一人ですべての苦しみや孤独を飲み込んでいるのだろうか?」
 シナモンを癒しているのは「物語」です。そうであるがゆえに「物語」は完結され、輪は閉じられなければいけません。

 最後にシナモンは主人公と顔を合わせません。合わせる顔がないからです。主人公が井戸の底に下りていけば非常に危険であり、場合によっては彼の命が失われるかもしれないことも、シナモンは理解していました。しかし、彼は主人公が井戸の底に向かうことについて、何の警告も与えず見過ごしました。(これには逡巡があったかもしれません。この事については後述します。)それは主人公がシナモンの「ねじまき鳥クロニクル」の物語に決着をつけて完結させることを、シナモンが望んでいたいたからです。主人公が決着をつけることによってシナモンの物語もやっと完結するのです。彼が物語を完成させたい気持ちを優先させたがゆえに、主人公は生命の危機にさらされました。もう少しタイミングが遅ければ死んでいたかも知れません。主人公をわかっていて危機にさらしたシナモンは自分が許せません。このため主人公と顔を合わせられませんでした。


16.シナモンの父親は誰に殺された
 シナモンの父親は、ナツメグの話によると「物語から出てきたものに」殺されました。物語とはシナモンの「ねじまき鳥クロニクル」でしょうから、「物語」から現実世界へ浸食してきた「悪魔」に殺されたのだといえます。シナモンの父親は「悪魔=ねじ緩め鳥」と契約したのだと思います。引き換えに得たものが何かはよくわかりませんが、おそらく「才能(特に社交的な才能も含む)」的なものだったのではないでしょうか。この契約にどれほどの見返りがあったのか知れませんが、おそらく彼ら家族の「成功」には必須のものだったのでしょう。

 シナモンが真夜中に窓の外を見たときの2人の男のうちの、小さな男は父親です。(「あの小さな男はどことなくお父さんに似ている」)実際より小さく見える理由は、おそらくシナモンが見ているのは「現在」ではなく、「過去」だという意味なのだと思われます。といっても彼が「契約」したのは成人後だと思いますので、現実の姿としては身長が小さいのはおかしいのですが、象徴的な意味なのでしょう。)

 契約の条件の1つはおそらく「ねじまき鳥」を捕えることでした。このため、父親は木を登って「ねじまき鳥」を捕えようとします。しかし、彼が「ねじまき鳥」を捕えることができたかは不明で、背の高い男(おそらく「悪魔」)は結果を見ずに、穴を掘り何かを埋めて去ってしまいます。「ねじまき鳥」を捕えること自体は、悪魔にとってはあまりたいした話ではなかったのかもしれません。
 そして、シナモンは夢の中で埋めたカバンを開けます。その中には生きている心臓があります。つまり、契約の条件として父親は悪魔に魂(心臓)を渡したということです。その契約の光景を見たシナモンは衝撃で「自分の一部」を失います。消え去った自分の一部は彼から「言葉」も一緒に持ち去り「物語」のある世界の迷路に飲み込まれます。

 結局、シナモンの父親は、ある時期に契約の代償として、悪魔に心臓と胃と肝臓とふたつの腎臓と膵臓を回収され死にます。シナモンの父親が死を回避するためには、誰かに「悪」を継承しなければいけなかったわけですが、シナモンの父親は「悪」をシナモンに継承させることを拒否し、自分の身体を代償として悪魔に渡し死んだものと思われます。


17.資格
 主人公が「悪」と対決し、妻を取り戻すためにはいくつもの条件と資格を持つことが必要でした。
 
 第1に無意識世界にアクセスするための「井戸」が必要でした。井戸が無意識世界の入口であり、主人公は入口を手に入れなければいけません。無意識世界に入ることができることによって、主人公は「電話の女」と会うことができ、また、無意識世界の「悪」と対決することができます。
 第2に「壁抜け」をしたことを知らせる「あざ」のしるしが必要でした。この「あざ」のしるしを手に入れることによって、主人公はナツメグ・シナモンと会うことができました。彼らの助力がなければ主人公は井戸を手に入れることができず、悪と対決することできませんでした。主人公はシナモンの物語に組み込まれることによって「ねじまき鳥」の資格を得ます。
 第3に主人公は、真相を解き明かし「電話の女」に名前を与えなければいけません。
 第4に「バット」です。主人公は、自分の「暴力性」をコントロールすることが必要でした。「悪」と対決するときはためらわず「暴力」を行使しなければいけません。しかし、最後の対決の時に井戸にはバットはありませんでした。(無意識世界の)バットは「電話の女」によって与えられるのではなくてはいけないのでしょう。井戸にバットがないのを主人公はシナモンが持ち去ったのではないかと考えますが、この考えが正しいとした場合、これはシナモンの逡巡(主人公を本当に「悪」と対決させてよいのか)を示していると思われます。

 最後に主人公が井戸に下りたのは間宮中尉と皮剥ぎボリスとの対決が書かれた、間宮中尉の手紙がきっかけでした。この手紙を読んだ主人公は「悪」と戦う決意と覚悟を固めたと思われます。

 第2部では、「顔のない男」の制止を振り切って行ったとき主人公はバットを持ってはいませんでした。この時は「悪」を確定することができず、また、対決する覚悟と準備がまだ主人公にはできていません。このときに「あの男」と対決した場合、覚悟と準備のない主人公は殺されていたと思われます。(現実世界では、井戸の底での事故死という形で死んでいたでしょう。)

 

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「ねじまき鳥クロニクル」書評④

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13.加納マルタ・クレタ
 ① 加納マルタとクレタは同一人物
 加納マルタとクレタは主人公の前にどちらか一方しか現れません。このことは加納マルタとクレタは同一人物であることを示します。2人は同一人物の中の別々の人格です。「いや、主人公は両方見ているのだから、いくら変なメイクしていても同一人物だったらわかるだろう」という意見もあるかと思いますが、この小説では、同一人物であっても別の人格であれば、声や容貌も変わってしまうのではないかと思われます。「電話の女・クミコ」が典型的です。

 もっとも、最初の写真で加納マルタは2人が並んでいる写真を渡しています。だから、加納マルタのモデルにあたる「姉」は存在している(た)のでしょう。しかし、主人公と会っている加納マルタは現実の「姉」ではなく、加納クレタ本人です。加納クレタもまた「解離性同一障害」なのだと思われます。「自分がどこに行って何をしていたのかは思い出せないということは、よく起こるというほどではありませんが、ときどきは起こります」との発言があります。

 加納クレタは苦痛に満ちた人生、その後の無感覚な人生を生きてきました。そして、ワタヤノボルに精神的に汚されたことをきっかけに新たな人格(それが「加納クレタ」な訳ですが)を生み出しました。加納マルタは、新しい彼女の人格を導くためにつくりだされた人格です。その人格の発現は加納クレタの人格の誕生と同時だと思われます。このため、それ以前の加納マルタの「記憶」は遡って改竄されたものです。(あるいは、マルタの人格は昔から存在していたが、眠っていたという解釈も可能ですが。)

 加納マルタは自分が必要だと思う時にしか、その人格を表しませんので、誰も彼女に連絡をとることができません。彼女の方から連絡を来るのを待つしかありません。第2部の終わりあたりで加納クレタは新しい人格を獲得して、加納クレタの名前を失います。その人格にはまだ名前は与えられていませんが、加納クレタを導くための人格であった加納マルタの人格もその役割を終えて消滅します。

 このため、主人公は最後に加納マルタと電話したときにこう思います。「ひょっとして、僕が加納マルタと話をすることはもう二度とないのではないだろうか、これを最後に彼女は僕の前から完全に姿を消してしまうのではないか」と。そして、加納クレタに与えたクミコの服を、加納マルタがクリーニング屋に預けて加納マルタの人格は姿を消します。この小説におけるクリーニング屋は「こちら側」と「あちら側」の境目を示しています。クミコは、クリーニング屋に寄ってから、主人公のもとを去ります。加納マルタもクリーニング屋に寄ってから、その人格を消滅させてしまいます。
 第3部の終わりで主人公が加納クレタと夢で会話したときに、「『加納マルタはあれからどうなったのかな?』」と主人公が尋ねても加納クレタはそれには答えず、哀しそうな顔をするだけです。 

 ② 加納マルタは「どちらの側」にいる?
 第2部でワタヤノボルと加納マルタの3人で会話をした後、主人公は加納マルタに「あなたはこの件に関しては、いったいどちらの側についているんですか」と聞き、加納マルタは「どちらの側でもありません」と言っています。これは少しわかりにくい回答です。なぜなら、加納クレタを精神的に汚したワタヤノボルのことを加納マルタの人格は憎悪しており、決してワタヤノボルの側に立つことはないからです。

「でも岡田様におわかりいただきたいのは、加納マルタは基本的には岡田様の味方だということです。何故なら私は綿谷ノボル様を憎んでいますし、加納マルタは何よりも私のためを思っている人間だからです。加納マルタはたぶん岡田様のためにそれをしていたのだと私は思います」

と加納クレタは言っています。

 しかし、加納マルタ・クレタは、主人公が今の状態でクミコを取り戻そうとするのは、極めて生命を危険にさらす行為になることが分かっているので、これを勧める気もありませんし、できればやめた方がいいと思っています。

「いいですか、岡田様、もっとひどいことにだってなったのです」

 だから、「この件に関しては」主人公の側に立っているわけではありません。また、加納マルタの人格は主人公のためにというより加納クレタのために動いています。

 ③ 加納クレタの「壁抜け」
 ちなみに、第2部の終わりで加納クレタは足に泥をつけないでどうやって主人公の部屋まで来たんでしょうか?井戸から「壁抜け」をして来たということだと思いますが、彼女が「壁抜け」できる能力を示すためにこの描写はあるのでしょうか?新しい人格を獲得するために「壁抜け」をする必要があったという意味なのでしょうが、ちょっとよくわかりません。

 ④ 加納クレタの誘い
 加納クレタは主人公に一緒にクレタ島に行かないかと言ってきます。「悪」との対決の回避です。もし未来に「悪」と対決するとしても、現在の主人公には力がなく、どこかで力と資格を得る必要があります。

「ここに残っていると、岡田様の身にはいつか必ず悪いことが起こります」(中略)「とても悪いことです」

 しかし、「悪」との対決の回避をすることは、クミコを取り戻すことをあきらめるということです。
 主人公は選択を迫られます。この選択で主人公は人生の岐路に立たされています。「悪」との対決は極めて危険な行為であり、もっと「良くないことが起こる」可能性があります。それも極めて高い可能性です。また、実際にクミコを取り戻せたとしても、その人は「元のクミコの人格」であるとは限りません。

 このため、「悪」との対決の回避は、これはこれで現実的な選択といえます。これまでの村上春樹作品の主人公はたぶん、妻が去ったとしても追いかけたり、待ったりはしなかったと思われます。特に妻から二度と戻る意思がない手紙を送られた後では。
 しかし、この小説の主人公は「声にならない声で。言葉にならない言葉で」クミコが主人公に助けを求めていることに気が付きます。問題はもっと深く隠されており、主人公は彼女を取り戻すために、真相を解き明かすことを決意します。

 ⑤ 加納クレタの子供
 第3部の加納クレタの夢で、彼女は胸に赤ん坊を抱いて、「この子供の名前はコルシカで、その半分の父親は僕で、あと半分は間宮中尉なのだ」と言っていますが、この子供は現実にいるのでしょうか。どちらともいえませんが、この後、主人公が笠原メイに「もし僕とクミコのあいだに子供が生まれたら、コルシカという名前にしようと思っているんだ」と言っていますので、象徴的な夢であって現実ではないのかもしれません。
 この小説は子供が「ねじまき鳥(間宮中尉・オカダトオル)」の後継者となるか、「ねじ緩め鳥(ワタヤノボル)」の後継者として奪い去られるかの戦いでもあります。

 

14.笠原メイ、死への好奇心 
 笠原メイは、「死への好奇心」にとりつかれた少女です。死への好奇心はバイクに乗った男の子を殺し、そして井戸の縄梯子を引き上げ、主人公は生命の危機にさらされます。

「私はただなんとかそのぐしゃぐしゃに近づきたかっただけなの。私は自分の中にあるそのぐしゃぐしゃをうまくおびきだしてひきずりだして潰してしまいたかったの。そしてそれをおびきだすためには、本当にぎりぎりのところまで行く必要があるのよ。(中略)ねえねじまき鳥さん、私には世界がみんな空っぽに見えるの。私のまわりにある何もかもがインチキみたいに見えるの。インチキじゃないのは私の中にあるそのぐしゃぐしゃだけなの」

 井戸に下り、無意識世界に深く潜っていくということは「死に近付く」ということでもあります。異界に行くことと同じですので、無意識世界に潜るときは現実世界に戻ってこれるように、「こちら側で」誰か待っている人間が本当は必要ですが、主人公は特に待つ人もなく井戸の底に入っていきます。そこには非常な危険があります。主人公はひょっとして笠原メイに待ってくれる役を期待したのかもしれませんが、それは無理な話というものです。彼女は主人公の恋人でもなんでもないわけです。かえって、彼女は縄橋子を引き上げて異界から主人公が戻れないようにして、より危機に近付くようにします。しかし、真実を解き明かすためには主人公は深く潜り、「死に近付く」必要があったのかもしれません。

 でも、なんか主人公は呑気ですね。多分加納クレタが助けにこなかったら本当に死んでいたと思います。主人公が自分の「死」にあまり真剣に考えていない分、「死」について考える登場人物が必要なのでしょう。彼女は「ぐしゃぐしゃ」を捕えたくて主人公に近付きます。そして主人公が苦闘しているのを見て、まるで自分のために戦っているような気分になります。主人公は、自分のため、奥さんのために戦っているのに、いろいろな人がいろいろな物を主人公に託していきます。彼女もその1人です。

「死への好奇心」にとりつかれた彼女は非常に危うい存在ですが、第3部でこの地を離れてかつら工場で仕事をすることで回復していきます。

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「ねじまき鳥クロニクル」書評③

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9.顔のない男
 「顔のない男」は無意識における主人公の人格です。ロビーの人間は「ワタヤノボル」の味方です。彼らはテレビの言うことしか信じません。そのため主人公の敵であり脅威となります。無意識世界においては「顔のない男=彼自身の無意識」しか味方はいないのです。

 

10.ギター弾きの男(バットを持った男) 
 ギター弾きの男は、主人公の「暴力性」を象徴する人格です。それは「僕の目には見えない何かに対する怒り」です。ギター弾きの男と対決した後に見た、男の血だらけの皮膚が主人公の顔と体に貼りつき覆ってしまう夢が、彼が主人公自身であることを示しています。

 まず、クミコが堕胎手術を受けた夜に札幌の町で、ギター弾きの男から最初の警告を受けます。彼はバーの演奏の余興で、蝋燭を手にかざして焼く手品を見せます。自らの手を焼く「暴力」を観客に見せます。男の痛みを観客も共感し、痛みを感じます。他人の痛みを共感できるという心は本来人間の「正しい」心の動きです。しかし、そこで行われたものは手品であり、詐術であり、偽りです。彼は、人間の心の動きを悪用しようとする「悪」が影で動いていることを主人公に警告しました。しかし、この時に主人公はこの警告の意味を理解できませんでした。(ただし、このバーの手品の場面のすべてが主人公が見た幻覚あるいは夢なのだと思います。)

 次に会ったときに主人公はギター弾きの男と対決し、バットを手に入れます。主人公が「悪」と対決するには、自分の「暴力性」と向き合って対決し、コントロールしなければいけません。

 

11.クミコの抱えていた問題とは
 一番わかりやすそうな回答としてはクミコは「解離性同一障害」であるということです。ただ、特定の病名をつけてしまうと「いや、この症状は『解離性同一障害』の症状とは合致しない」等という別の批判が出てきてしまうかと思います。たとえば他の人格が暴走しているとき、通常は表の人格であるクミコはそのあいだの記憶はないはずですが、彼女の告白の手紙などを見ると記憶は残っているようです。(その一方で記憶のない状態があるらしい記述もあります。)ただ、そういう症状もあるのかもしれません。また、別の人格に主人格が乗っ取られつつある過程なのかもしれません。すいませんが、専門家ではないので詳細はよくわかりません。
 この小説ではあまり厳密に病気を定義せず、「クミコには別の人格があり、しばらくの間その人格は眠っていたが、あることをきっかけに発現した」ぐらいの理解でよいのではないかと思います。

 なぜ、クミコに別の人格が発生したかというと、主人公は「自分の血筋に何か暗い秘密のようなものがひそんでいて」と家系の問題の可能性も上げていますが、「解離性同一障害」が遺伝的なものが関係しているのかちょっとわかりません。しかし、きっかけははっきりしています。祖母による影響です。「(祖母は)クミコを思い切り抱きしめたかと思うと、その次の瞬間にはみみずばれができるくらい強く物差しで彼女の腕を打った。」等の記述があります。小説中に血筋のことが言及されていることを考えると、祖母も「解離性同一障害」だった可能性があります。
 わけのわからない祖母のクミコに対する言動に、深く傷ついたクミコは心を外界から閉ざしてしまいます。「それから何ヵ月かのあいだの記憶は彼女にほとんどない」という記述を考えると、この時の体験から彼女の中にもう1つの人格が生まれたのだと考えられます。

 結婚前から、そして堕胎手術をした時にクミコが「何か言いたい」が何も言えなかったことは「自分には、別の人格が潜んでいるかもしれない」ということでしょう。しかし、別の人格のことは彼女自身にも確信がつかめずよくわからないことでした。何かを言おうとしても、彼女にも理解できず自分で説明できないため何も話せないのです。

 そして、ワタヤノボルの存在があります。彼は、クミコに別の人格があることを知っており、その別の人格を精神的に汚し、彼のコントロール下におきました。しかし、別の人格はその後しばらく姿を現さず眠っていました。だからクミコは、自らの別の人格の存在も、ワタヤノボルに精神的に汚されたことも気が付くことなく成長します。
 ところが、その人格は決して消え去ったわけでなく、時限爆弾のように彼女の中にいました。ワタヤノボルはクミコの別の人格を発現させることによって、改めて彼女を自分のコントロール下に置こうとします。そして「ねじ緩め鳥」である彼は、彼女の欲望の根が暴走するような仕掛けを、あらかじめ仕掛けていました。

 ところで、ワタヤノボルがクミコとクミコの姉を精神的に汚したというのは、具体的にはどういう意味なのでしょうか?小説には書かれていませんが、ワタヤノボルが加納クレタにやったようなことを指しているなら、普通に性的虐待になるかと思われます。

 彼が、クミコの別の人格を出させコントロールしようとしたのは、彼が「悪(ねじ緩め鳥)」の後継者としてクミコの子を求めていたからです。「悪」と契約したワタヤノボルは、「悪」の後継者を見つけられなかった場合は、契約の代償としておそらく魂を奪われ死ぬことになります。性的に不能である彼は、近親者の後継者がどうしても必要だったのです。この「後継者の不在」の問題を当初彼は重視していなかったのですが、結婚生活の失敗および伯父から「悪」を継承したことによって重大な問題として立ちはだかることになります。だから、彼はクミコをどうしても取り返す必要がありました。

 彼の悪夢は、オカダトオルに殺されることの悪夢ではありません。後継者を提供できなければ、彼自身の魂を「悪」に渡さなければいけません。その恐怖で汗をかいていたのだと思われます。

 

12.中絶した子供は誰の子供だったのか
 これは、はっきりと断定できません。
 第1にワタヤノボルの可能性ですが、ワタヤノボルが性的に不能であることは、加納クレタの話や牛河の話などの記述があり強調されています。しかし、一方でクミコの姉の服でマスターべーションしている記述もありますので、近親者にしか性欲が持てない異常性欲者という説明もできてしまいます。ただ、「ねじまき鳥クロニクル#17」でクミコが「正確にいえば肉体的に汚したわけではありません」と書いてあることを考えると、やはりワタヤノボルが性的不能であることは間違いなく、ワタヤノボルの子供である可能性はないのでしょう。
 第2にワタヤノボルによって精神的に汚され暴走した別の人格が、クミコの表の人格は知らぬままに、見知らぬ誰かと交わり妊娠した可能性ですが、この可能性も排除できません。
 第3にオカダトオルの子供であるということです。この可能性もあります。

 結局誰の子供か彼女自身にもわかりません。ただ、「自分が自分で何をやっているかわからない」こと自体が彼女を追い詰め、人格の崩壊に危機に陥らせます。自分の抱えている問題を知りたくて、クミコは兄であるワタヤノボルに近づきますが、これはやってはいけないことでした。

 ただ、小説を読み直すと、この子供はやはりオカダトオルの子供なのだと思われます。というのは、おそらく彼女の眠っていた別の人格が目覚めたのは妊娠がきっかけだと思われるからです。妊娠した時点では別の人格は眠っている状態で、現実世界で行動していませんので、第1や第2の可能性はないのだと思われます。時々主人公はクミコに乖離の感覚を感じていますが、妊娠するまでは別の人格の発現には至っていないのだと考えられます。しかし、これは彼女自身には確信のつかめないことです。

 

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「ねじまき鳥クロニクル」書評②

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

5.猫(ワタヤノボル⇒サワラ)
 猫の失踪が、この小説のはじまりであり全ての問題のきっかけになっています。
 クミコは今まで欲しいものは決して手に入れられない生活をしていました。そうであるがゆえに、子供の頃から飼いたかったが飼えなかった猫を飼うことが「新しい生活」の象徴でした。

「私も子供の頃から猫が飼いたくてしかたなかったの。でも飼わせてもらえなかった。(中略)これまでの人生で、何かを本当に欲しいと思ってそれが手に入ったことなんてただの一度もないのよ。ただの一度もよ、そんなのってないと思わない?そういうのがどんな人生か、あなたにはきっとわからないわ。自分が求めているものが手に入らない人生に慣れてくるとね、そのうちね、自分が本当に何を求めているのかさえだんだんわからなくなってくるのよ」

 その猫が失われたことは、2人の新しい生活が脅かされる災厄の予兆になりました。

「わかってほしいんだけど、あの猫は私にとっては本当に大事な存在なのよ」「というか、あの猫は私たちにとって大事な存在だと思うの。あの猫は私たちが結婚した次の週に、二人で見つけた猫なのよ」

 しかし、なぜ猫は「ワタヤノボル」という不吉な名前を初め与えられたのでしょうか?およそ2人の新しい生活を象徴するものにふさわしくない名前です。これはこの小説が書かれた当初は、「ワタヤノボル」は「悪」とは限らず、主人公の「投影」かもしれない可能性があったからだと思われます。主人公はワタヤノボルを憎んでいますが、それは本当にワタヤノボルが憎むべき「悪」だからなのではなく、ただ単に自分の中に持っている自らの否定的な性質をワタヤノボルに見出し投影しているだけなのかもしれません。このような考えに立った場合は、猫のワタヤノボルの失踪は、主人公の否定的な性質である「影」がコントロールを失った、と解釈することもできます。この解釈の場合は、妻の失踪は(人間のほうの)ワタヤノボルが原因なのではなく、主人公の内面に問題があったことになります。

 「ワタヤノボル」という名をつけたのは主人公でしょう。たぶん主人公はこの猫のことはあまり好きではなかったのだと思います。(なぜ好きではないかと言うと、もちろん「ワタヤノボル」に似ていたからです。)小説内で「僕はその猫のことだって好きだった」とは書いていますが、そのすぐ後に「でも猫には猫の生き方というものがある」と突き放しています。2人の新しい生活の象徴と思って猫を大事に思っていたクミコと、それほどは重要に思っていなかった主人公に気持ちのずれがありました。ここらへんにも夫婦のすれ違いがあったのだと思われます。

 この物語のはじまりにおいては、主人公には自分の中に問題があったのか、それとも他者に問題があったのかわかりません。それを解き明かすためには主人公はそれこそ井戸の底に下りるように深く考えなければ真相を解き明かすことができませんでした。

 猫はどこへ行っていたのか?おそらく、井戸に落ちて「向こう側」へ行ったのだと思われます。そして、しばらく戻ってきません。これは、主人公が真実がわからずさまよっていることを暗示します。第3部のはじめに猫は戻ってきますが、これは主人公が問題を解き明かしたからだと思います。猫の帰還は、重苦しいこの小説の中のささやかな「良いニュース」となります。

 帰還した猫は主人公の「投影」的存在であることを暗示した「ワタヤノボル」の名前ではなく新しい名前が与えられます。なぜ、「サワラ(鰆)」なのかはわかりませんが、やはり漢字に春が入っているので、春の到来(明るい未来)を暗示しているのかもしれません。
 加納マルタの猫のしっぽの夢は正直よくわかりません。名前も変わり別の猫に生まれ変わったという意味ですかね。

 

6.本多老人の贈り物 
 本多老人が形見分けに主人公にカティーサークの贈答用化粧箱を間宮中尉を通じて残しましたが、中身は空でした。これは、何を意味するのでしょうか?
 第1に間宮中尉が手紙で書いたとおり、主人公と間宮中尉を引き合わせること自体が目的だったと考えられます。
 第2に中身が空の箱を主人公に渡すことよって、妻の失踪を予言したのだと思われます。
 第3に中身は208号室にボーイが持って行った、カティーサークがその中身なのだと考えられます。

 

7.間宮中尉・井戸の底の至高体験
 間宮中尉は皮剥ぎボリスの命令によって井戸の中に飛び込むか撃たれて死ぬかを選ばされ、井戸に飛び込み、井戸の底に残されます。そして、本田伍長により3日後助け出されます。井戸の底にいる間に、間宮中尉は至高体験(光の洪水)をします。「そこに一瞬強烈な光が射し込むことによって、私は自らの意識の中核のような場所にまっすぐ下りていけた」のですが、この至高体験は間宮中尉をどこにも導いてくれませんでした。そこに現れた「何か」は恩寵のようなものを与えようとしますが、結局間宮中尉には与えられません。恩寵は失われ、間宮中尉は呪われた人生を送ります。

 このことは、至高体験が必ずしもどこかへ導いてくれるわけではないことを示しています。間宮中尉は「何か」を見極めてとらえることができませんでした。それは啓示や恩寵の発する熱に耐えうるだけの力を彼が持っていなったからです。

 彼は啓示を受け止められず、うまく世界のねじをまく「資格」と「力」を得ることができず「悪」を倒せませんでした。彼は「たどり着けなかった人間」です。もっとも彼だけではなく、たいていの人間はたどり着けないのです。また、この話は人生において「啓示」が示される機会は一瞬であり、その時に掴み取ることに失敗した場合は、二度目の機会はないという警告でもあります。

 彼の体験と警告はオカダトオルに受け継がれます。彼の体験を受け継ぐことによって主人公は真相にたどり着き、「悪」を倒す資格を得ます。
 
 第3部のシナモンが語る「主計中尉」は主人公が推測しているとおり間宮中尉なのではないかと思われます。シナモンの「ねじまき鳥クロニクル」では中尉は絞首刑に処されますが、シナモンの語る物語と現実にはいくつか齟齬があるということでしょう。「ねじまき鳥クロニクル」には間宮中尉の存在が組み込まれていなければいけません。なぜなら彼は先代の「ねじまき鳥」だからです。

 しかし、彼は2度の「要領の悪い虐殺」を行い否応なしに暴力の渦に巻き込まれていきます。そして、シベリアの収容所で「地獄」を見ます。そこでは殺すのも殺されるのも、殺さないのも殺されないのも、そのあいだは偶然にすぎずそれを分かつ意味はありません。そうして無意味な「要領の悪い虐殺」を行い、地獄を目にすることによって彼は自分を擦り減らし、帰国するときは「空っぽ」になってしまいます。無意味な死を潜り抜けることで、彼の人生自体の意味が擦り減り無意味なものに近づいていったのです。


8.主人公はなぜ、井戸の底に下りる
 なぜ、主人公は井戸の底に下りるのか?直接のきっかけは本多老人の予言(「下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。流れのないときには、じっとしておればよろしい」)と間宮中尉の手紙です。はじめは何らかの啓示を受けることを期待して主人公は井戸の底にもぐります。しかし、井戸に下りたからといって、必ずなにかの啓示を受けたりするわけではありません。実際主人公が受けるのは太陽の光ではなく、半月(正確には井戸の半円形の口から見える風景ですが)であり、暗闇です。光は井戸の底まで届きません。

 しかし、井戸(個人的無意識)の底にもぐり深く考えることが、結局真実を解き明かす鍵になります。井戸の底は「集合的無意識(普遍的無意識)」につながっており、その地下通路を伝わって、208号室で主人公は「電話の女」と会うことができました。そして、彼女の名前をみつけることで、主人公はクミコを深く理解し彼女を取り戻すことができます。

 けれど、井戸の底と地下通路は危険な場所です。それは根源的な暴力や情動の世界でもあります。本当は意識を持って降りていくような場所ではありません。「向こう側」に一旦行ってしまうと戻ってこられないかもしれません。実際に主人公は2度生命の危機にさらされます。
 そして、この世界の人達は皆「ワタヤノボル」の味方で、「顔のない男」以外に主人公の味方はいません。完全な敵地です。

 主人公が下りる井戸はただの井戸ではなく水脈が枯れているうえに、出入り口を封鎖された路地の奥にあります。二重に「流れの疎外された場所」にあります。これは、人間の共感する力、お互いを深く理解する力が疎外されていることを暗示します。そこは間違った場所です。主人公が妻を取り戻すためには、「流れの疎外された場所」から地下水脈の流れを取り戻すことが求められています。

 

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