謎解き 村上春樹(感想・考察・書評)    (ネタバレあり)

村上春樹作品の謎解き(感想・考察・書評)(ネタバレあり)

謎解き 村上春樹(感想・考察・書評) 目次

☆『騎士団長殺しへの質問は、村上春樹『騎士団長殺し』読了。までお願いします。

 

☆☆目次☆ ☆

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

☆はじめに~「村上春樹はどこが面白いんだ?」  

☆「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。 目次・更新履歴

☆「ノルウェイの森」書評①~⑫ 目次

☆「風の歌を聴け」書評

 余談~「僕」のついた1つの嘘とは?

☆「1973年のピンボール」書評

☆「羊をめぐる冒険」書評

☆「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」書評

☆「ダンス・ダンス・ダンス」書評 目次 ①~⑦

☆「国境の南、太陽の西」書評

  「国境の南の南、太陽の西の西」(パロディ小説)

☆「ねじまき鳥クロニクル」書評 目次 ①~⑥

☆「スプートニクの恋人」書評①

  「スプートニクの恋人」書評②~「欠落部分」を想像する

☆「海辺のカフカ」書評 目次 ①~④

☆「アフターダーク」書評

☆短編集「女のいない男たち」感想 目次

☆「1Q84」書評 目次 ①~③ 

☆『ねむり』書評

 

 

☆村上春樹的多元宇宙

 

☆新ブログ「古上織蛍の日々の泡沫」 (歴史考察(戦国時代・三国志)、書評及び日々の雑想のブログ)もよろしくお願いします。◇村上春樹 関連 目次(「村上春樹作品における「悪」について 他)はこちら

『ねむり』書評

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*激しくネタバレしていますので、ご注意願います。

 

  村上春樹『ねむり』新潮社、2010年を読了しました。(以下は、1989年「文學界」初出のものではなく、2010年改版の書評ですので、よろしくお願いします。)

 

  では、書評に移ります。

 

1.この作品における「不眠」とは何か?

 この小説の冒頭は「眠れなくなって十七日めになる。」からはじまります。

しかし、実際には十七日も不眠で生きている人間などいません。だから、これは「現実」ではありません。

 

 主人公は最後に「何かが間違っている。」と気が付きます。(太字で書かれています。)つまり、主人公が眠れなくなった十七日間は現実ではなく、「何かが間違っている。」ものです。主人公が「不眠」と感じているものは不眠ではありません。

 

 では、何なのか。筆者は、はじめ主人公が既に死んでいて、死んでいることに気が付かず普段通りの生活をしているのかと思いました。これは、「でも、あるいはそうじゃないかもしれない、私はふとそう思った。死とは、眠りなんかとは全く違った種類の状況なのかもしれない――それはあるいは私が今見ているような果てしなく深い、覚醒した暗闇であるかもしれない。死とはそういう暗闇の中で永遠に覚醒しつづけることであるかもしれない。」(78ページ)と主人公が思ったことの描写からそう思いました。

 

 しかし、それでは最後の男たちに車を揺さぶられる描写の意味が分かりません。この最後の描写から考えると、不眠の状態の主人公の体験している世界は現実の「不眠」の世界ではなく、「夢」の世界なのではないかと思いました。

 

 なんだ、夢オチかよ、ということですが、これはただの夢ではありません。おそらく現実世界の主人公は何らかの理由で昏睡状態にあり、十七日間眠り続けている状態なのでしょう。(十七日間は主人公の主観で現実世界ではそれ以上かもしれません。)夢が醒めるのは、目を覚ましたときです。主人公はずっと昏睡状態にありますので、ずっと目が覚めないのです。この状態は「夢」の中では、夢が覚めない(目覚めない)状態な訳ですから、「眠り」と「起きている」のが逆転して、いつまでたっても「眠らない」状態になります。これが「不眠」の正体です。主人公は、十七日間、「覚めない夢」を見続けているのです。

 

 最後の場面の主人公の車を動かしている二人の男は誰なのでしょうか。主人公が昏睡状態にある「夢」の世界を破壊しようとしているのですから、この二人は、主人公の夫と息子でしょう。夫と息子が病院の病室のベッドで昏睡状態にある主人公に向けて、彼女が目を覚ますように必死に声を掛けているのです。おそらく「何かが間違っている」と自覚した彼女は近いうちに目を覚ますのでしょう。(夢の中で「何かが間違っている」と自覚するのは夢が覚める前触れです。) 

 

(*別の解釈として「疲労感のない不眠=覚醒剤使用の暗喩」という解釈もできるかもしれません。この解釈だと下手なホラー小説より怖いです。まあ、ドラッグを使っても17日間不眠で生きていられる訳ではありませんので、多分この解釈は無いと思いますが。)

 

 2.この小説のテーマは何か? 

 この小説のテーマは、人によって違うと思いますが、私の解釈では「『大人』になってからの『自分探し』とその危機」です。主人公のようにある程度年を取り、結婚もして子供もできた人が、「自分探し」に直面しなければいけないというのは、ある意味ひとつの「危機」です。

 

 若いうち、独身のころは何度でも自分に迷い、「自分探し」をする自由が若者にはあります。しかし、そこから年月が経ち、結婚をして、子どもが生まれ「家庭」が作られ、育児に追われる様になると、大人には社会的な役割(主人公の場合は主婦として)が与えられ、その役割を全うするだけで1日が過ぎていくことになります。結局、毎日の自分の役割をこなしていくだけで、日々が過ぎていき、そのうち消耗していき、「本当の自分のためだけの自分」という物がなくなっていきます。主人公は、前はたくさん小説を読んでいたのに、本もほとんど読まなくなり、お酒も飲んでいたのに、飲めない夫に合わせて飲まなくなり、チョコレートも食べなくなります。そうやって生活は摩耗していきます。

 

 しかし「大人」には、「本当の自分」を探している暇などありません。「大人」が家族の役割を捨て、「自分探し」をするのは家庭を崩壊させます。具体的には、失踪や離婚、あるいはよくありそうなパターンとして不倫があるでしょう。そうやって「本当の自分のためだけの自分」の世界を確保しようとすると家庭は崩壊の危機に陥ります。

 

 主人公は、まさにそういった「本当の自分のためだけの自分」が無くなる危機の時に「不眠」(実は昏睡)になります。そうして家庭の妻や母の役割もこなしつつ、「不眠」によって「本当の自分のためだけの自分」の時間をも獲得することになります。

 

 普通の場合、「自分探し」は身近な人から遠く離れないと成り立たないものです。ところが、主人公は「不眠」によって「役割としての(本当ではない)自分」の時間も演じつつ、同時に「本当の自分のためだけの自分」の「時間」を獲得することによって、「自分探し」を行うことができるようになります。

 これはある意味ズルい、「間違っていること」です。現実には不眠が続くと人間は生きていません。現実的には有り得ない時間を獲得して、主人公は「自分探し」を可能にします。間違った時間の獲得は、それなりの代償が伴うはずです。このため、おそらく主人公は死の際にいます。

 

「本当の自分のためだけの自分」の時間を獲得した主人公がすることは、『アンナ・カレーニナ』を読むとか、プールを全力で泳ぐとか、夜中に一人でドライブするとか、ブランデーを飲むとか、チョコレートを食べるとか、その程度のたわいのないものです。しかし、主人公は、日々の役割を果たし続けているうちに、その程度のささやかなことでさえも消耗してできなくなっていたのです。

 

 また、主人公はあまり見たくなかった現実を見ることになります。夫がだんだんと醜くなっていくであろうことが分かったり、この先息子が大きくなれば自分はそれほど真剣に愛せないようになるのではないかと予感したりします。

 

 おそらく最後に主人公は目覚めるのでしょうが、その後の展開は決して平穏なものではないと思われます。彼女は永い夢の中で「本当の自分のためだけの自分」に目覚めてしまったからです。「本当の自分のためだけの自分」に目覚めた後の人間を描いた小説は数多くありますので、作者は主人公のその後を語りません。主人公の読んでいた小説が、主人公のその後を暗示しているような気がして気が滅入ります。

村上春樹的多元宇宙

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 はじめに~「村上春樹はどこが面白いんだ?」で書いたように、村上春樹作品は「多義的な解釈を許す」ものです。当ブログ「謎解き村上春樹」で書いた解釈は、筆者の一面的な解釈であり、これが唯一無二の解釈という訳でもなく、他の方の解釈を否定するものではありません。だからお読みになる方が、仮に「おお、これが村上春樹作品の唯一無二の絶対的な正しい解釈だな」と思っていただいても困ります。「まあ、このような解釈もあるのだな」と思っていただければ幸いです。(PR番組の「*個人の感想です」と同じようなものです。)

 

 あるいは、「お前の解釈は間違っている!」と言って、自分の解釈を延々と述べられる方もいます。解釈が「間違っている」という場合、例えば文章が国語的に(日本語の文章の読解的に)読み間違っている場合もたしかにありえますし、論理的におかしい場合もありえますので、その場合はご指摘いただけるのは有難いのですが、たいていの場合「お前の解釈は間違っている!」と言う方は、「自分の解釈が唯一無二の正解だ。だから、お前の解釈は間違っている」という意味のことがほとんどです。 

 こういう事を言われても正直困るのですね。繰り返しになりますが、村上春樹作品は元々多義的な解釈を許す開かれた作品として作られています。これは村上春樹氏の著作が、そのような構造で作られているからです。

 多くの村上春樹氏の作品は、作品の中にあえて「空白」が作られています。(「空白」を「謎」と言い換えてもよいです。)ある意味、「未完成の作品」となっています。その「空白」は読者が想像して「空白」を埋めて満たすことによって、はじめて物語として完成します。いわば、村上春樹作品は読者と作者の「合作」によって創られるのです。

 

 読者の「空白」を埋める解釈は、人それぞれですので、解釈人それぞれで読者の数だけ解釈があるといってよいです。このどれもが作品の解釈として「正解」です。読者の数だけ「正解」の解釈があります。いわば読者の数だけ多元的な「村上春樹ワールド」があります。ある読者の解釈が他の読者の解釈と矛盾しても、そのどちらかが間違いという訳でありません。(前述した国語的・論理的な間違いは除きます。)これはパラレルワールドのようなものですから、どれもが、それぞれの読者の別の世界において「正解」なのです。

 

 こうした多元的な読み方を可能にするのが、村上春樹作品の魅力であり、これを「作品には唯一無二の解釈しかなく、自分の解釈が唯一無二の正しい解釈で、お前の解釈は間違っている!」というのは貧しい読み方と言わざるをえません。

 

「お前の解釈は推量に過ぎないのだから、断定口調で書くな!」という方もいらっしゃいました。うーん、確かに解釈人それぞれで、唯一の正解などないのに、断定的(「・・・です。」「・・・である。」とか)に書くのはよろしくないのかな、と一瞬思ったのですが、当ブログで書いた私の書評・感想は「私という読者の中では」これが「正解」なんですね。他の解釈では腑に落ちない、しっくりこない。

 

 だから、「これは仮説ですが・・・・・」「・・・・・・という可能性もあります」みたいな言葉を全ての文章に付ける気はしません。他の解釈では「私にとっては」腑に落ちず、色々考えてブログに書いた解釈が「私にとって」腑に落ちるからそのように書いているのです。当ブログの解釈が「私という読者」にとっては、(「仮説」ではなく)「正解」なのです。

 

 これは上記でも書いたように、他の読者の方の「正解」を妨げるものではありません。「村上春樹的多元宇宙」の別の宇宙の解釈と考えて頂ければ幸いです。

「1Q84」書評 目次

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☆「1Q84」書評 目次

 

書評①~「大きな物語」と「小さな物語」

書評②~ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープル

書評③~Q&A 

「1Q84」書評③~Q&A

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(「1Q84」書評  目次 に戻る)

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

*謎の多い小説ですので、この小説の疑問点がありましたら、是非コメント欄にご質問願います。一緒に解答を検討してみたいと思います。

 

 ここからは、この作品の個別の疑問点とその考察を書きます。

(*平成26年5月17日、Q17とQ19に追記しました。)

 

Q1.青豆に1Q84年への通路を示したタクシーの運転手は何者か?(BOOK1 第1章)

 

A1.「時計仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」だと思われます。(『海辺のカフカ』ならば「カーネル・サンダース」の役割)青豆を1Q84年に召喚することで、リトル・ピープルと反リトル・ピープルの戦いの幕が切って落とされます。しかし、彼はどちらの味方でもありません。青豆の召喚はリトル・ピープルと反リトル・ピープルの両方が望んでいることなのです。彼は物語を進めるために登場した狂言回しの神です。

 

 

Q2.青豆は「シンフォニエッタ」をいつ聴いたのか?(BOOK1 第1章)

 

A2.おそらく彼女は高校2年のときに、偶然天吾もティンパニ奏者として参加した音楽会の演奏を聴いたのだと思います。しかし、ここで出会わないんですね、2人は・・・・・・。何かの伏線かと思いましたが回収されず、何か妙な感じがします。(私が気づいていないだけ?)

 

 

Q3.ふかえりはマザなのか?ドウタなのか?

 

A3.ふかえりがマザなのか、ドウタなのかは小説の中でも天吾と小松によって考察がされています。(BOOK3 第18章)

 ここでは、天吾は、ふかえりはマザだと考え、これに対して小松はふかえりがドウタという仮説が成り立たないかと疑問を呈します。

 小松の疑問に対して天吾は自問自答します。

 ふかえりが「わたしにはセイリがない。だからニンシンするしんぱいない」と言っているため、「もし彼女(筆者注:ふかえり)が分身に過ぎないのなら、それはたぶん自然なことだ。分身は自らを再生産することはできない。それができるのはマザだけだ。」(*1) と天吾は考えます。この天吾の考察からは、ふかえりはドウタであるという結論になってしまいます。しかし、天吾は自らの仮説を否定し、以下のように言います。「『ふかえりにははっきりしたパーソナリティーがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです』」(*2)

 そして、「あるいはふかえりは場合によって実体と分身と使い分けられることができるのか。」(*3)という考察もしています。

 

 これに対して、私は(天吾の結論とは違って)ふかえりはドウタではないかと考えています。理由は以下の通りです。

 

① つばさと同じく、ふかえりも初めはひとことも口をきかない状態で、その後いくらか口をきく状態になったというのが共通しています。これはドウタである特徴なのではないのでしょうか。

② ドウタは月経がなく、妊娠しません。これは、つばさにもふかえりにも当てはまります。(*1)の天吾の考察は説得力があります。また、妊娠しないにも関わらず、ドウタたちは巫女として「『後継者をみごもるように務めることが』」「『役割として決められて』」います。(BOOK2 第9章参照)そして、ふかえりは(自らがみごもるのではなく、青豆がみごもる形で)その役割を果たしています。

③ ふかえりは天吾に「『わたしがパシヴァであなたがレシヴァ』」と言っています。(BOOK2 第22章)つまり、ふかえりはパシヴァの役割をするドウタなのだと考えられます。

 

 しかし、『空気さなぎ』では、ふかえりがモデルと思われる主人公が自らのドウタをあとに残して置いてきたとしています。また、リーダーも「『彼女(筆者注:ふかえり)はそのために自分らのドウタを捨てた』」と言っています。(BOOK2 第13章)

 けれども、『空気さなぎ』に書かれていることが全て事実であるとは限りません。一番大事なことであるふかえりの正体については『空気さなぎ』は真実を語っていないのかもしれません。また、同じ『空気さなぎ』の中でも「私は本当にマザなのだろうか。私はどこかでドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか。」(BOOK2 第19章)という描写もあり、ふかえりがドウタである可能性も示唆しています。

 

 またリーダーの発言は、全てを正しく青豆に語っている訳ではありません。前回のエントリで触れたように彼は青豆に嘘をついています。このため、ふかえりの正体についても嘘をついている可能性があります。(何のために?という所がちょっと不明ですが、青豆に、というよりリトル・ピープルに、ふかえりの反リトル・ピープルのパシヴァとしての動きを気取られないためなのではないかな、と考えます。)

 

 『空気さなぎ』の描写では、リトル・ピープルは「『マザの世話なしにドウタは完全ではない。長く生きることはむずかしくなる』」(*4)(BOOK2 第19章)と言っています。これに対して、天吾は「『しかしふかえりの場合、マザがそばにいなくてもドウタは巫女としての役割を果たすことができたのかもしれない』」(BOOK3 第18章)と推測しており小松も同意していますが、これはあくまで天吾と小松の推測であり根拠はありませんので、『空気さなぎ』の(*4)の記述の方を重視します。

 

 もし、ふかえりがドウタならば、長く生きるためにマザが近くにいたはずです。

 それならばマザは誰なのか?考えてみますと、この小説に名前だけ出ているアザミがマザであると思われます。彼女がふかえりから話を聞き、それを文章にして雑誌の新人賞に応募した訳ですから、彼女が原『空気さなぎ』の真の作者と言えます。「『ふかえりにははっきりしたパーソナリティがあります。独自の行動規範もある。それは分身にはおそらく持てないものです」(*2)というの天吾の反論については、おそらくマザのアザミが長く側にいて「教育」したことにより、ふかえりはパーソナリティを獲得したのではないかと考えられます。

 

 また、BOOK1で行方不明になったふかえりが吹き込んだテープを天吾に届けたのもアザミです。「ドアが閉まる音は、彼女が一人きりでいるのではないことを示唆しているかもしれない」とも書かれていますので、身を隠している場所にはアザミもいます。(BOOK1 第24章)

 

「あるいはふかえりは場合によって実体と使い分けられることができるのか」(*3)というのも魅力的な仮説ですが、やはりアザミという存在が明示されているのを考えると、マザとドウタは別個の存在なのかと思われます。

 あと、アザミはふかえりの2歳年下と書かれているのが引っかかりますが、カモフラージュのため年齢をごまかしてるのかなという気がします。

 

 他にも「『だからこそ教団は、逃亡したふかえりの居場所がわかっていても、彼女をあえて力尽くで取り戻そうとはしなかったんです。なぜなら彼女の場合、マザが近くにいなくてもドウタはその職責を果たすことができたから』」(BOOK3 第18章)と天吾は推測していますが、そもそも教団のドウタは「後継者を産む」という意味では職責を果たせていません。3人のドウタが作られたのも、「後継者を産む」という職責を果たすためで、結局その役には立ちませんでした。(これは、おそらく後継者は「外部(異界)」から来るものでなくてはいけないからだと思われます。)教団が彼女をあえて力尽くで取り戻そうとしなかったのは、おそらくはじめは(彼の「反リトル・ピープル計画」遂行のため)リーダーの意思によって抑えられ、彼が死んだ後は後継者を確保することが、教団にとって最優先課題になったためだと思われます。

 

 あるいは他の仮説としては、「深田絵里子=アザミは自分のドウタをあとに残して逃げ出した。そして、『空気さなぎ』の最後の描写の通り(BOOK2 第19章)アザミは(リトル・ピープルの力に頼らず)自分の空気さなぎを作り、その空気さなぎから生まれたのが、この小説に出てくるドウタのふかえりである」という説もあるかもしれません。

 ただこの説だと、ドウタというのは2つ以上作れるのか?(深田絵里子は特別な存在なので作れるかもしれませんが)、結局『さきがけ』の施設にいるドウタはどうなったのか?と新たな疑問が出てきてしまいます。うーん、微妙な所ですね。

(追記:アザミは、ローマ字に直すとAZAMIになります。これを入れ替えるとI MAZA(アイ マザ)となります。この作中で「マザー」と書かず「マザ」とわざわざ書いてることを考えると作者の意図的なアナグラムなんでしょうけど、なんかなーという気がします。)

 

 

Q4.天吾のガールフレンド(安田恭子)は、どこへ消えた?

 

A4.彼女は『さきがけ』の信者です。おそらく、リーダーの依頼で1年ばかり前から天吾のスパイをしていたのだと思われます。仕事を果たし、彼女は教団の施設へ消えます。

 

 牛河が、助成金の話を天吾に持ち出した時、牛河は天吾が長編小説を書いているのを知っていました。天吾が長編小説を書いているのを知っているのは小松と彼の年上のガールフレンドのみです。(BOOK2 第2章)つまり、天吾が長編小説を書いていることは、ガールフレンドから教団を通じて牛河に情報として伝わったのです。

 ガールフレンドの夫(これも彼がそう名乗っているだけで、本当かは不明なのですが)が「『家内は既に失われてしまったし、どのようなかたちにおいても、あなたのところにはもううかがえない』」という話をした後を見計らって、牛河は「天吾が眠れないでいることを承知して」電話をかけてきます。そして「あるいは安田恭子のことを示唆している」かのような話をします。(BOOK2 第6章)

 

 彼女が、天吾の母親に印象が似ているというのは、なんかいろいろ深く想像してしまいますが、実際の所は天吾が好きになりそうな女性をスパイとして送り込んだのかな、という程度の話かなと思われます。

 

 

Q5.天吾の父親は誰か?

 

A5.天吾の父親(とされる人)が「『あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた』」と言った通り、天吾の母は「空白」と交わりました。(BOOK2 第8章)いわゆる「処女懐胎」です。このエピソードは「神の子どもたちはみな踊る」にもあり、青豆のエピソードでもあります。このエピソードは、天吾が「神の子」である事を示しています。天吾が「神の子」であることが、リトル・ピープルに後継者あるいは後継者の父として選ばれた理由の1つとなります。(Q&A6.参照)

(注:以下では、「天吾の父親(とされる人)」は単に「天吾の父親」とします。)

 

 

Q6.なぜ、天吾と青豆が後継者の両親として選ばれたのか?

 

A6.これは、A5.で書いたように天吾が「神の子」だからでしょう。(私はBOOK3を読むまで、天吾が「後継者」なのだと思っていました。)では、なぜ青豆が「母親」なのか?これはリーダーが言うようにまず、「神の子」天吾と「『互いを強く引き寄せ合っていたから』」です。(BOOK2 第13章)そして、2人とも異界(1984年)の人間だからということもあるかと思われます。

 

 また、彼らが「棄教者」だからだということもあるかもしれません。青豆は「証人会」の、天吾は父親の「NHKの集金」の棄教者です。棄教者の子供が、教祖の後継者になるというのは、非常にアイロニカルな話です。つまり、どんなに逃げようと歪んだ世界からは逃れされないぞ、という呪いの意味が込められているのかもしれません。

 

 深田保の子であるふかえり(あるいはアザミ)は、なぜ後継者にならなかったのでしょうか?『空気さなぎ』の記述を見たところ、もともとリトル・ピープルを呼び出してしまったのはふかえりです。しかし、彼女は施設から逃亡し、リトル・ピープルに叛旗を翻し、反リトル・ピープル的なものの代理人になります。このため、彼女はリトル・ピープルの代理人になりえません。あるいは、パシヴァとなった者は後継者にはなれないのでしょう。

 

 

Q7.ふかえりが雷の夜になぜ、①「『あなたはあなたのネコのまちにいった。(後略)』」、②「『そのオハライはした』と彼女は尋ねた。(中略)『それをしなくてはいけない』(中略)『ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはない』」、③「『わたしたちふたりでいっしょにネコのまちにいかなくてはならない』」、④「『リトル・ピープルがいりぐちをみつけるかもしれない』」、⑤「『わたしたちはふたりでひとつだから』」と言ったのか?(BOOK2第12章)

 

A7.以下①~⑤の文の意味を考察します。

 ①と④を読むと、ネコのまち(父親が入院している千倉)は危険な場所で、リトル・ピープルが入口の通路をみつけるかもしれない可能性があることをふかえりが警告しています。リトル・ピープルが出現する場所は特定されている訳ではありませんが、やがて昏睡し死に至る天吾の父親がリトル・ピープルの通路になる可能性があるということでしょう。

 あるいは、「通路」は親子の確執が発生する場所で出現する可能性が高いという意味もあるのでしょうか?

 天吾は、後継者の父親としてリーダーから指名された訳ですが、リトル・ピープルにしてみるとリーダーを介さず、天吾本人に接触して後継者にできればそれでも構わない訳です。というか、そちらの方が望ましい。リーダーを介する場合のように裏をかかれる心配がありません。「ネコのまち」で直接天吾とリトル・ピープルが接触する危険性が極めて高いとふかえりは判断しました。

 

 ②でふかえりの言うところの「おはらい」は第14章で示されるように、天吾とふかえりが交わることを指していますが、これがなぜおはらいになるかというと、天吾と青豆の子を後継者として誕生させるためです。これが、リーダーの考える「リトル・ピープルに対抗するための物語」の正規ルートな訳です。天吾が「ねこのまち」に捕らわれて、リーダーとふかえりの望む正規ルートを外れ、リトル・ピープルと独自に接触してしまうと反リトル・ピープルの物語は破綻します。

 

 ③実際に天吾とふかえりが一緒に「ネコのまち(千倉)」に行くことはありませんでしたので、「オハライ」の象徴的な意味なのでしょう。

 

 ⑤天吾をレシヴァ、ふかえりをパシヴァとする「反リトル・ピープル連合」の事を示しています。

 

 

Q8.(青豆)「『私はつまり、天吾くんの物語を語る能力によって、あなたの言葉を借りるならレシヴァの力によって、1Q84年という別の世界に運び込まれたということなのですか?』」、(リーダー)「『少なくともそれがわたしの推測するところだ』」(BOOK2 第13章)の2人の推測は正しいのか?

 

A8.微妙にこの作品、各章の間の月日の流れがよくわからないのですね。計算しようと思ったのですが曖昧な記述が多過ぎてあきらめました。誰か計算した強者がいたら教えてください。

 ただ、青豆が1Q84年に来たときには、まだ天吾による『空気さなぎ』のリライトは出来ていないような気がするんですね。だから、「天吾くんの物語を語る能力」だけによって呼ばれたというのはちょっと厳しいと思います。天吾と青豆をこの世界に呼び込んだのは、やはりリーダーとふかえりな訳で、上記のように青豆の推測にリーダーが同意しているのは、自分達(リーダーとふかえり)が天吾と青豆を1Q84年に呼び込んだ事実をごまかすためだと思われます。

 

 

Q9.「『このままいけば、かなりの確率で天吾くんは抹殺されるだろう』(中略)『君がもしここでわたしを殺し、この世界から削除したとする。そうすればリトル・ピープルが天吾くんに危害を及ぼす理由はなくなる』」(BOOK2 第13章)というリーダーの言葉は正しいか?

 

A9.「『このままいけば、かなりの確率で天吾くんは抹殺されるだろう』」というのは、おそらく正しくありません。リトル・ピープルはリーダーを見限ろうとして、次の代理人(後継者)を探しています。多分その代理人の第1候補が天吾です。このままいけば天吾はリトル・ピープルに抹殺されることはないですが、おそらく猫の町に行ったときにリトル・ピープルに取り込まれて新たな代理人にさせられることになると思われます。

 

 「『君がもしここでわたしを殺し、この世界から削除したとする。そうすればリトル・ピープルが天吾くんに危害を及ぼす理由はなくなる』」は微妙ですね。リトル・ピープルが天吾に関心を持たなくなるのは、この雷の夜に受精された新たな命を後継者として差し出すことをリーダーがリトル・ピープルと密約したためで、その後青豆を自殺させることでリトル・ピープルの裏をかくというのがリーダーの計画な訳ですが、この計画は一時しのぎにしかならならず、時間を置いてリトル・ピープルは天吾に接触しようとするだけだと思われます。リーダーは「『(リトル・ピープルは)、そんなもの(天吾)は放っておいて、よそに行って別のチャンネルを探す』」とか言ってますけど、この小説でレシヴァの才能がありそうな人物って、リーダーの他は天吾しかいないのですね。「『代理人になるには様々な困難な条件を満たす必要がある』」らしいですし、適性のある天吾に接触しようとするのが自然の流れです。

 

 とすると、天吾だけは1Q84年から脱出する手段を有していて、リーダーもふかえりもそれを知っているのではないでしょうか。いざとなったらその手段を使って天吾を脱出させる計画だったかもしれません。リーダーの「『天吾くんは生き残る。わたしの言葉をそのまま信じていい。それはわたしの命と引き替えに間違いなく与えることのできるものだ』」(BOOK2 第13章)という台詞が他に比べてやけにキッパリしているのです。脱出の鍵はなんとなく中央線と二股尾にあるのかな?という気がします。(書評①~「大きな物語」と「小さな物語」)(補足)の天吾が1Q84年に来たタイミングについてもご覧ください。)

 

 いずれにしても、リーダーを殺さないと天吾が死んでしまうと青豆に思い込ませるために、リーダーは嘘を交えながら青豆を誘導していきます。

 

 

Q10.なぜ、ふかえりは天吾に「『あなたはうしなわれない』」「『オハライをしたから』」(BOOK2 第16章)と言ったのか?

 

A10.「オハライ」により、「後継者」候補の地位が、天吾から、天吾と青豆の子供になりリトル・ピープルの関心がそちらに向いたためだと考えられます。

 

 

Q11.BOOK2 第21章で青豆は「どうしてこんなにあのゴムの木のことが気にな」っているのでしょうか?

 

A11.BOOK1 第3章で、青豆が高速道路の非常階段を降りている時に、彼女は向かいのマンションのベランダに色褪せたゴムの木が置かれているのを見ます。そして、BOOK3 第31章でも変わらず同じゴムの木がそこにあるのを青豆は見ます。「それでもそのゴムの木は、不安と迷いを抱え、手足を凍えさせながら不確かな階段を登っていく青豆に、ささやかながらも勇気と承認を与えてくれる。(中略)このゴムの木は、私のために目印の役を果たしてくれている。」この描写から考えるとゴムの木は青豆にとって元の世界である1984年への目印の役割を果たしているのだと考えられます。

(ゴムの木については、映画『レオン』でレオンが世話をしていたゴムの木(正確にはアグラオネマという植物だそうですが)に関係していると言う方もいますね。)

 

Q12.BOOK2 第22章で天吾が「『君が知覚し、僕が受け入れる』」「『『空気さなぎ』を書き直したときと同じように』」と言ったのに対してふかえりが「『おなじではない』」「『あなたはかわった』」「『ネコのまちにいけばわかる』」と言った意味は?

 

A12.「『あなたはかわった』」というのは、天吾がふかえりと交わることによって、天吾のドウタが目覚めたことを示します。逆に言いますと『空気さなぎ』を書き直したときは天吾のドウタは目覚めていないことになります。『ネコのまちにいけばわかる』というのは、そこで天吾は自分のドウタ(空気さなぎの中にいる10歳の青豆)に会うということを意味しています。(BOOK2 第24章参照) 

 

Q13.猫の町の看護婦(特に安達クミ)の意味は?

 

A13.BOOK3 第3章で、天吾は彼女達を見て『マクベス』に出てくる3人の魔女を思い浮かべるなど、おだやかではありません。(BOOK3 第6章)

 

「ここは猫の町だ。ここでしか手にすることのできないものがある。彼はそのために電車を乗り継いでこの場所にやってきた。しかしここで手にするすべてのものにはリスクが含まれている。安達クミの示唆を信じるなら、それは致死的な種類のものだ。何か不吉なものがこちらにやってくるのが、親指の疼きでわかる。」と天吾は考えます。(BOOK3 第9章)

 

 「ここでしか手にすることのできないもの」とは天吾のドウタ(空気さなぎの中にいる10歳の青豆)のこと、「致死的な種類のもの」「何か不吉なもの」とはリトル・ピープルのことです。猫の町では自分のドウタを見つけることができるかわりに、リトル・ピープルに捕えられるリスクがあるということでしょう。猫の町には、リトル・ピープルが出てくる通路ができる可能性がありました。通路とは、A7.で書いたように昏睡し(やがて死に至る)天吾の父親の事です。

 

 しかし、結局猫の町で天吾は「空気さなぎ」の中の10歳の青豆(しかし、すぐ消えてしまう)を見付けます。「空気さなぎ」があるということは既にリトル・ピープルの通路が開いているという意味なのでしょうか?それとも、そうとは限らないのかちょっと分かりません。

 けれども、天吾は「空気さなぎ」は見かけてもリトル・ピープルとは遭遇しませんでした。これは、やはり「オハライ」の効果があったということなのでしょうか。

 

 安達クミは基本的には天吾に警告を与えるために登場していますが、一方では天吾を誘惑しこの猫の町に捕えるために登場しているようにもみえます。彼女はそういう両義的な存在なのではないかと思われます。

 

 

Q14.偽のNHKの集金人の意味は?

 

A14.偽のNHKの集金人の正体は、読めば分かるかと思われますが天吾の父親(の生霊のようなもの)です。BOOK3 第14章で青豆が「彼女のちいさいものを狙っている人々のことを、老婦人に打ち明けるべきだろうか?『さきがけ』の連中が夢の中で彼女の子供を手に入れようとしていることを。偽のNHK集金人が手を尽くしてこの部屋のドアを開けさせようとしているのも、おそらくは同じ目的のためだということを。」と考えている通り、リトル・ピープルが天吾の父親(の生霊のようなもの)を使って、『さきがけ』とは別ルートからふかえりや青豆を捕えようとしています。

 

 

Q15.結局牛河は何だったのか?

 

A15.牛河は自分で気づかずに、天吾を青豆のところへ誘導する役をします。牛河を誘導したのはふかえりなのではないかと思われます。彼はふかえりの誘導のまま青豆を天吾の元へ導き、タマルに殺され生贄になります。おそらく誰かが1Q84年世界から他の世界へ脱出するには生贄が必要なのでしょう。彼は結局この歪んだ世界の謎を理解することもなく、巻き込まれ(危ない仕事をしていたので自業自得と言えばそれまでですが)世界の秘密に関わった故に殺される哀れな生贄です。

 ふかえりの目が「牛河を憐れんでいるように見え」たのは、彼女には牛河が1Q84年世界の生贄として死ぬ未来が見えていたからでしょう。(BOOK3 第22章) 

 そして、最後に牛河の死体はリトル・ピープルの通路になります。(BOOK3 第28章)結局1Q84年世界は、リトル・ピープルの呪縛から逃れられません。

 しかし、『ねじまき鳥クロニクル』世界の牛河がいち早く危険を察知して逃げ出したのに対して、『1Q84』の牛河は自ら危険に巻き込まれて殺されてしまうのは対照的です。

 

 

(未解決の疑問)

 

Q16.NHKの集金人の1981年の傷害事件の意味は?(BOOK1 第9章)

 

A16(?).結局、青豆の記憶になかったこの傷害事件が取り上げられた意味がよく分かりません。後の描写でも触れられていないようですし。1981年から世界が歪み始めたという意味ですかね。 

 

 

Q17.なぜ、戎野は、天吾に対して小松のことを何も言わなかったのか?(BOOK1 第14章)

 

A17(?).これは一応後のページで説明されてはいます。「『この前の君(筆者注:天吾)の話を聞いて、すぐさま戎野先生に電話をかけた。先生はもちろん俺(筆者注:小松)のことを覚えていたよ。ただ天吾くんの口から、俺の人物評をあらためて聞いておきたかったようだ』」と小松は話しています。

 ただ、なんか引っ掛かるんですよねー。おそらく、天吾が1984年から1Q84年に連れてこられたことに関係するのでしょうけど。何かモヤモヤしますが、よく分かりませんので保留とします。

 

(平成26年5月17日 追記)

 以下のような仮説を思いつきました。 

1Q84年の戎野は、天吾が別の世界(1984年)から来たことは知っていました。しかし、1984年世界の交流関係がどう変化しているのか、あるいは変化していないのかまでは分かりません。もしかしたら、自分(戎野)と小松が知り合いではない世界も有り得ると考えた戎野は、あえて小松の話を持ち出すことをやめて様子を伺いました。

 という感じなのですかね。(あまり面白くない仮説ですが・・・・・・・。)

 

 

Q18.なぜ、天吾は小学校の時に家に泊めてくれた担任の教師の名前が思い出せないのか?

 

A18(?).これも不明です。彼女の名前は太田俊江といいます。

 

 

Q19.結局『さきがけ』の資金源は?

 

A19(?).これも不明です。

 

(平成26年5月17日 追記)

(以下は仮説で、私もちょっと確信が持てませんが、思いついたので書いておきます。) 

ちょっと思ったのですが、株取引で儲けている戎野が『さきがけ』に資金を提供したのではないでしょうか?そう考えると、戎野は『さきがけ』に対して第三者的な人間ではなく、『さきがけ』の実質的な創設者であり、パトロンであり、「キングメーカー」でもあるのだと言えます。 

BOOK3 第15章で戎野は小松に対して、天吾に「『君(筆者注:天吾)とふかえりとのあいだには性的な関係があったのかな?』」と聞くように依頼しています。これは戎野がふかえりの保護者として気にしているわけではなく、『さきがけ』の『秘儀』が行われたのかを確認している発言です。上記の記述からも、実は戎野が『秘儀』を知っている程、『さきがけ』に深く関わっていることがうかがえます。 

つまり、戎野は『さきがけ』の実質的な創設者でありながら、リーダー深田保を「代理人」として操り、自分は全く関わっていないかのように振る舞う、この小説の全ての事件の「黒幕」であるという可能性があります。 

戎野はBOOK1 第18章で「『もし、ここにビッグ・プラザ―が現れたなら、我々はその人物を指してこういうだろう、『気をつけろ。あいつはビッグ・プラザ―だ!』と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。』」と天吾に言っています。 

この戎野の発言は現代におけるビッグ・ブラザーの消滅を言っているかのようにみえて、①現代世界において表舞台に出るのは不都合なので影に回っているだけで、実はビッグ・ブラザーは現在も存在していること、②ビッグ・ブラザーは影から「代理人」を通して人々を操っているのだ、ということを暗示しているのではないのでしょうか。 

 そして、戎野こそが影に潜むビッグ・ブラザーなのではないかと思われます。

 

 

Q20.さきがけの子供たちはだんだんと口数が少なくなり、表情がなくなり、やがて学校に来なくなるが結局どうなっているのか?(BOOK1 第21章)

 

A20(?).さきがけの子供たちは皆ドウタができるのでしょうか?学校に後で行っているのは、皆ドウタなのでしょうか?しかし、巫女のドウタは3人しかいないのですよね。結局よく分かりません。

 

 

Q21.副校長?

A21(?).BOOK3 第10章で牛河が天吾と青豆の母校の小学校を訪れ副校長と話をします。しかし、牛河は副校長という言葉に聞き覚えがありません。それもそのはずで、副校長という制度は2008年4月から法律により施行された制度です。このため、1984年には千葉県の公立小学校には副校長は存在しません。しかし、1Q84年世界では既に副校長制度は導入されているのでしょう。この事は、牛河が1Q84年世界に迷い込んだことを示しています、と書こうかと思いましたがこの牛河は初めから1Q84年世界の住人ですよね。(牛河は最初から『さきがけ』と接触しています。)とすると読者に向けた、ここは1Q84年世界であるという、メッセージなんでしょうか?何か今更のような感じがします。ちょっとこれも保留です。

 

(この他にも、この小説の疑問点がありましたら、コメント欄にお知らせください。うまく解答できるか分かりませんが一緒に考えてみます。また、(未解決の疑問)で、「これが答えなんじゃないか?」というのがありましたら、是非お教えください!他にもQ&Aへの指摘等ありましたらよろしくお願いします。)

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)

「1Q84」書評②~ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープル

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(「1Q84」書評  目次 に戻る)

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 この小説で重要な概念として、ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープルがあります。ビッグ・ブラザーはジョージ・オーウェルの『1984年』で使われた言葉です。

ねじまき鳥クロニクル』で出てくる「根源的な悪」ワタヤノボルは、メディアを使って大衆を扇動しようとしているソフィストケイトされたビッグ・ブラザー候補の観がありますが、『1Q84』では、作中の戎野が「『この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ』」(BOOK1 第18章)と言っているように、1Q84年にはビッグ・ブラザーは存在し得ません。

 

 これは、『ねじまき鳥クロニクル』の執筆時と、『1Q84』執筆時とでは時代の変化があったためで、この間の大きな事件として9・11アメリカ同時多発テロ事件(2001年)とその後の対テロ戦争があります。また、大きな変化としてインターネットの飛躍的な発達があります。このような大きな事件と変化の衝撃を受けて、作者はこれからの時代の「根源的な悪」は「ビッグ・ブラザー」的なものではなく、「リトル・ピープル」的なものになるという洞察をしています。

 

 では、リトル・ピープルとは何なのでしょう。これは、前に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ⑤~「根源的な悪」 - 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(色々ネタバレしていますのでご注意願います。)で述べたように、「無名の人間達による、無数の悪意の集積」のことを指します。もっと広い意味では「集合的無意識」と解釈してもよいかもしれませんが、この小説ではリトル・ピープルは主に「悪」の意味で使われていますので、「無名の人間達による、無数の悪意の集積」でよいかと思われます。

 

 作者がこの概念を思いついたのは、やはりインターネットの発達が大きな理由でしょう。それより前の時代に比べてネットにより無名の人達の持つ無数の悪意はあっという間に集積し、広範囲に伝播していくことを容易なものとしています。その勢いは無視できるものはありません。

 しかし、そうした悪意の発信源が、ビッグ・ブラザーのような独裁者であるかというとそういう訳ではありません。ネットでは誰でも悪意の発信源になれるのです。また、悪意の発信者は特別な地位を持つ訳ではなく、皆の悪意の代理人に過ぎません。大衆の悪意に逆らえばあっという間に代理人の地位から引き摺り下ろされ、次なる悪意の生贄になるだけの存在です。

 

 ただし、この「ファンタジー」小説の中ではリトル・ピープルは人間の悪意のようなぼんやりした物ではなく、実体を持って登場してきます。

 また、リーダーが「『我々は大昔から彼ら(筆者注:リトル・ピープル)と共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明なものであったころから』」(BOOK2 第13章)と言っている通り、リトル・ピープルは太古から存在していますのでインターネットにより発生した訳ではありません。昔から魔女狩りのように「無名の人間達による、無数の悪意の集積」が暴走して凄惨な事件が起こることはありました。しかし、リトル・ピープルの暴走の危険性は、現代文明において加速度的に増殖しているのです。

 

 なぜ、この小説の舞台が1984年なのか?ジョージ・オーウェルの小説にかけてというのももちろんありますが、まずオウム真理教の前身である「オウムの会」が始まった年であるためです。そして、今日インターネットと呼ばれているネットワークの日本における実質的な起源であるJUNETが運用された年は1984年です。ある意味後世に影響を及ぼす事象の根源の年であった1984年を舞台にしようと作者は考えたのだと思われます。

 

1Q84』に出てくる「根源的な悪」である『さきがけ』のリーダー深田保は、もはや独裁者(ビッグ・ブラザー)のような他人を扇動し操作するような地位ではなく、リトル・ピープルの代理人に過ぎず、むしろリトル・ピープルに支配された奴隷と言ってもいいかもしれません。あるいは、フレイザーの『金枝編』に出てくる「惨殺される王」です。

 

 「『歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか?その時代にあっては王とは、人々の代表として<声を聴くもの>であったからだ。そのような者たちは進んで彼らと我々を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その<声を聴くもの>を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力のバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界においては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。(後略)』」(BOOK2 第11章)

 

 彼は苦痛に満ちた代理人の地位を捨て死を願いますが、リトル・ピープルは、代理人の地位を辞めるのであれば、他の代理人(後継者)を出すことを要求します。深田保がドウタたちと交わる儀式は、後継者を生み出すためだと思われますが、リトル・ピープルの期待に反して、既にリーダーの生殖能力は失われており、無駄な儀式になっています。だから、リトル・ピープルは新たに後継者を探し出してもらう必要がありました。

 リーダーはリトル・ピープルの取引に乗ったふりをして、反リトル・ピープルを対抗させるための自作自演の計画を立てます。主人公である天吾と青豆は、リーダーの仕組んだ反リトル・ピープルの計画に巻き込まれていきます。

 

 リトル・ピープルの発生及び、リトル・ピープルに対抗するためにリーダー(及びふかえりと戎野)が計画し行動した経過を以下に辿ってみます。

 

① 10歳のふかえり(深田絵理子)が、偶然のきっかけでリトル・ピープルを召喚してしまいます。盲目の山羊は共同体の中の生贄(スケープ・ゴート)の象徴です。山羊がふかえりの不注意で死ぬことによって「通路」が開き、リトル・ピープルが新たな生贄を求めて向こう側からこちら側の世界に姿を現します。彼らは山羊の死体の口から登場します。(1977年?)(BOOK1 第6章)

 

② リトル・ピープルは、リーダーをレシヴァ=受け入れるもの、ふかえりをパッシヴァ=知覚するものとして、彼ら代理人を通じて『さきがけ』を支配します。(BOOK2 第13章)

 

③ リーダーは、ふかえりを施設の外に逃げ出させリトル・ピープルの支配が及ばないようにします。(これも同じくふかえり10歳、1977年?)

 

④ そして7年の歳月が経ち、リーダーはその力を失っていきます。

  後継者を求めるリトル・ピープルは、「母親」として青豆を1984年から1Q84年の世界に召喚します。

 

⑤ 同じ頃、ふかえりとアザミが『空気さなぎ』の本を書きます。

 

⑥ 小松に『空気さなぎ』の書籍化計画を持ちかけます。仕掛け人はふかえり、アザミと戎野です。

 この計画は天吾には小松の発案のように説明されますが、実際には戎野の方からこの計画を持ちかけたのではないかと思われます。話がとんとん拍子に進み過ぎなのです。小松がふかえりの写真をあらかじめ持っていました。また、天吾が先生と面接する前から結果がうまくいくという自信があり、仕事をすぐに取り掛かるように言って、ポケットマネーでワープロを買わせていることも、この推測を裏書きします。天吾に対しては、小松は自分の発案であるかのように振る舞っていますし、戎野も自分から持ちかけているのを天吾にはおくびにも出しませんが、それはこの計画が仕組まれたものであることを隠すためです。

 後継者の「父親」である天吾もこの計画に巻き込むのも、初めから計画の中に組み込まれているというか、天吾を巻き込むことがこの計画の大きな目的の1つです。

 

 天吾はBOOK2 第22章でふかえりに「『つまり君は僕がレシヴァであることを知っていて、あるいはレシヴァの資質を持つことを知っていて、だからこそ僕に『空気さなぎ』の書き直しをまかせた。君が知覚したことを、僕を通して本のかたちにした。そういうことなのか?』(*)」と聞きます。

 ふかえりから返事はありませんが、その前に(ふかえり)「『わたしたちはふたりでホンをかいたのだから』」、(天吾)「『そのときから僕は、知らないままレシヴァの役を果たしていたということ?』」、(ふかえり)「『そのまえから』」「『わたしがパシヴァであなたがレシヴァ』」という会話があります。この会話の流れから考えると、天吾の「『つまり~』(*)」以下の推測は当たっていると思われます。

 

 戎野は、深田保の消息がわからない振りをしていますが、実際にはふかえりを通して消息を知っており、保の意を受けてこの計画を実行しています。

 ふかえりも、これが保の意を受けた先生の計画であることを知っています。天吾も小松を通して計画を知っているはずだと思っているので、天吾が電車の中で先生(戎野)のことを聞いても「今更どうしてそんなことを訊くのか」「この人は何を言っているのだろう」という顔をします。もっとも老獪な戎野は、天吾には知らない振りをしますが。(BOOK1 第8章)

 

⑦ 一方で、リーダーはドウタであるつばさをセーフハウスに行かせることで、老婦人の注意を「さきがけ」に仕向け、教祖の暗殺を計画させます。

 

⑧『空気さなぎ』の本が発行されベストセラーになることでリトル・ピープルの秘儀が明らかにされ、その物語はリーダーによると「『リトル・ピープルの及ぼすモーメントに対抗する抗体としての役目を果た』」すことになります。(BOOK2 第13章)

 

 そして、リトル・ピープルが腹を立てて声を出さなくなります。坊主頭(隠田)はBOOK3 第18章で「『声はもう彼ら(筆者注:『さきがけ』)に向かって語りかけることをやめてしまった』」「『そしてその不幸な事態は、小説『空気さなぎ』が活字のかたちで発表されたことによって生じたものなのです』」と言っています。秘儀は秘されているからこそ力を発揮します。このため、代理人であるリーダー深田保の力は更に失墜し、急速にその肉体は滅びに近付く事となり、新たな後継者が至急に望まれることになります。

 

 リトル・ピープルに対抗するには、代わりの「物語」を作って対抗することが必要です。このため、天吾を新たなレシヴァ、ふかえりをパシヴァとして「反リトル・ピープルの物語」が創られることになります。ふかえりは天吾に「『わたしたちはひとつになっている』」「『ホンをいっしょにかいた』」と言います。(BOOK1第18章)

 

⑨ つばさは小型爆弾で犬を殺し、翌日姿を消します。(「『近寄っても犬が吠えない誰かが』」犬の紐を解いて殺しました。(BOOK2 第3章)この記載からセーフハウスの内部の人物の犯行だという事がわかります。)その後、つばさは『さきがけ』の施設に回収されたと思われます。

 

⑩ あゆみが殺されます。あゆみを殺したのは、教団関係者なのか赤の他人かは不明です。(おそらく赤の他人だと思われます。しかし、そこにはリトル・ピープルの作用がからんでいるのかもしれません。)リーダーはあゆみが殺されることを予知しつつ見殺しにします。リーダーがあゆみを見殺しにした理由は、第一にあゆみが『さきがけ』の事を嗅ぎまわっていたことと、第二に青豆にあゆみを見殺しにした事を知らせることによって青豆を逆上させ、リーダーを殺す決意を固めさせるためです。

 

⑪ 青豆に自分を殺させます。

 

⑫ 同じ雷の夜に天吾がふかえりと交わります。青豆が「処女懐胎」します。代理人の後継者が誕生することになります。ふかえりは、この時天吾に「『リトル・ピープルはもうさわいではいない』」と言っています。(BOOK2 第14章)これは、リトル・ピープルが後継者の懐胎を望んでいたことを示しています。

 

 

⑬ 最後に、天吾を守るために青豆が自殺します。青豆のお腹の中にいる後継者の胎児も死に、リトル・ピープルの望んでいた後継者も消失し、リトル・ピープルは力を失います。

 

「そして彼女はその王であり預言者である存在を暴力的に消去することによって、世界の善悪のバランスを保ったのだ。その結果、彼女は死んでいかなくてはならない。でもそのとき彼女は取り引きをした。その男を殺害し、事実上自分の命を放棄することによって、天吾の命が救われる。それが取り引きの内容だ。もしその男の言ったことを信じるなら、だ。」(BOOK2 第15章)

 

 ①~⑫までリーダーの計画はうまくいきましたが、最後の⑬の計画だけはうまくいかず、青豆は自殺しませんでした。

 リーダーの言葉には嘘があり、「『そしてわたしが理解する限り、ドアは一方にしか開かない。帰り道はない』」「『もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ』」「『しかしそれは簡単なことではない』」「『(中略)率直に言えばおおむね不可能なことだ』」(BOOK2 第13章)と言って、1Q84年から脱出する方法はなく、天吾を守るためには自分は死ぬしかないと青豆を絶望させ自殺へ導こうとしています。

 

 嘘というより、知らないだけなのではないかという意見もあるかもしれませんが、この世界の構造を知り尽くしているリーダーが知らない訳が無いと思うのですね。

 しかし、すんでの所で青豆は「遠い声」を耳にして、新しい命を宿したこと無意識のうちに感じて、自殺を思いとどまります。(BOOK3 第2章)

 この青豆を自殺に追い込む計画は、リーダー単独による計画で、ふかえりと戎野はこの計画を知りません。

 

 

 BOOK2 第23章の銀色のメルセデス・ベンツに乗っていた女性は誰なのでしょうか?結局BOOK3ではその後(夢の中を除いて)登場しません、と思ったら最後(BOOK3 第31章)で、高速道路で空車のタクシーをつくる役でちょこっと出てきますね。(相手の中年男性はBOOK1 第1章のタクシーの運転手でしょうか。)

 私は、彼女は1Q84年世界における赤坂ナツメグなのではないかと思いました。BOOK3の当初の構想では、『ねじまき鳥クロニクル』で主人公が赤坂ナツメグに助けられるように、青豆もナツメグに助けられ、リトル・ピープルと対決する「反リトル・ピープル・クロニクル」のような「大きな物語」に巻き込まれていくというストーリー展開も考えられていたのかもしれません。しかし、青豆はナツメグの助けを拒否し、自分で(老婦人とタマルの助けも受けていますが)問題を解決しようとします。

 

 そして、最終的に天吾と青豆は再会を果たし1Q84年から脱出します。

 

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「1Q84」書評①~「大きな物語」と「小さな物語」

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。『ねじまき鳥クロニクル』への言及があります。

 

  それでは、『1Q84』の書評を始めます。

 

 この小説のタイトルは『1Q84』です。これはもちろん、ジョージ・オーウェルの『1984年』を意識したものですが、それとともに、作者の過去作である『ねじまき鳥クロニクル』も意識しているのではないか、と思います。

 その理由ですが、まず『ねじまき鳥クロニクル』も『1Q84』も同じ1984年から物語が始まります。

 次に『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』には共通して牛河という人物が出てきます。牛河を通じて『1Q84』世界と『ねじまき鳥クロニクル』世界は繋がっています。ただし、牛河は『1Q84』では、元弁護士で探偵のような仕事をしていますが、『ねじまき鳥クロニクル』では政治家の秘書をやっており、牛河の職業や環境は全然違います。おそらく、『ねじまき鳥クロニクル』の世界は青豆が最初にいた1984年の世界であり、政治家秘書の方の牛河は1984年の住人なのです。

 

 しかし、『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』では物語の構造が大きく違います。

ねじまき鳥クロニクル』は、はじめは猫がいなくなることや、妻の失踪という「小さな物語」から始まって、最後はこの世界の「ねじまき鳥」と「ねじ緩め鳥」との戦いに主人公が巻き込まれていくという「大きな物語」に回収されていきます。満洲やシベリアのエピソードも出てきて、歴史的視点も入ってきます。

 ここでいう「小さな物語」とは、自分と家族や恋人など、自分の周囲の中だけの物語のことを指し、「大きな物語」とは物語世界の謎を解いたり、世界の秩序を回復させたりする等の、世界の根幹を巡る物語を指します。 

 これに対して『1Q84』は、1Q84年という「狂った世界」に主人公の2人が巻き込まれていくという「大きな物語」から始まりますが、『1Q84』の世界の問題はBOOK3の最後では放置され、10歳の時に手を合わせただけの恋人たちが再び出会う「小さな物語」に回収されます。

 

 なぜ、『ねじまき鳥クロニクル』執筆時(1994~5年出版)と、『1Q84』執筆時(2009~10年出版)で、物語の構造が変化したのか?これは作者の世界観や視点が執筆した年代によって変化したためだろうと思われます。

 

1Q84』が、オウム真理教の事件を意識して書かれていることはよく知られています。オウム真理教の事件では、教祖の麻原の作り出した歪んだ「大きな物語」にその信者も巻き込まれ、その物語を共有することで、大きな「悪」がなされました。作者は現代の「悪」を描くときに、「悪」の作り出した「大きな物語」に対抗するためには、「別の物語」を作り出す必要があると考えています。

 

ねじまき鳥クロニクル』執筆時には、「悪」の物語に対して対抗するために、第3部ではその「悪」の物語を内包するような(シナモンの作った)「ねじまき鳥クロニクル」という「さらに大きな物語」を作り出すことで対抗しようとしました。(ただし、『ねじまき鳥クロニクル』第3部は1994年から執筆されているようですので、オウム真理教の事件がどこまで反映されているかは微妙です。)

 

 しかし、『1Q84』BOOK3においては「悪」の作り出す「大きな物語」に対して、別の「大きな物語」で対抗するという考えは変化します。これは、別の「大きな物語」を作るというのは、結局別の宗教を作り出すということになってしまうのではないか?という作者の懸念によるものではないでしょうか。別の「大きな物語」こそが、真実であり善の世界であると規定されてしまうならば、それはまた別の独善や、偽りの真実の世界を生み出すだけなのではないか?それでは問題の解決にならないのではないか?という作者の疑問があったのではないかと思われます。

 

 このため、『1Q84』BOOK3では、対抗する別の「大きな物語」は提示されず、個人と個人の愛の物語、そして子供の誕生(この小説内ではまだ誕生していませんが)という「小さな物語」へと物語は回収されます。歪んだ「大きな物語」に対抗するには、別の「大きな物語」を作るのでは問題は解決せず、個々人の「小さな物語」を守っていくしかないという作者の現状へのメッセージが感じられます。

 

 ちなみに、小説内で言及されている通り1984年と1Q84年は平行世界ではありません。この2つの世界はスイッチのON、OFFと同じで、1984年から1Q84年に世界が切り替わると1984年の世界は消滅し、1Q84年の世界だけになります。逆に1Q84年から1984年(あるいは別の1q84年など)に世界が切り替わると1Q84年の世界は消滅します。

 だから、1984年の青豆が1Q84年の世界に行っても1Q84年の青豆に出会うということはありません。((タクシーの運転手)「『現実というのは常にひとつきりです』」(BOOK1 第1章)、「(さきがけのリーダー)『いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。(中略)1984年はもうどこにも存在しない』」「『言うなれば線路のポイントがそこで切り替えられ、世界は1Q84年に変更された』」(BOOK2 第13章)参照)

 

 このようにこの小説は、天吾と青豆が1Q84年世界から脱出することで、1Q84年の世界がその世界に内包される問題ごと消滅してしまうという展開で物語が終わってしまいます。これはちょっと強引な終わらせ方ではないかと、発表当時から批判や続編の要望などがありましたが、「小さな物語」を個々で紡いでいくというのが作者の現状へのメッセージである場合、残念ながら現時点では続編はないかと思われます。

 

 しかし今後の時代の変化により、独善や偽りの世界に陥る危険を冒しつつも、新たな「大きな物語」を構築しなければならない時が来るかもしれません。その時『1Q84』のBOOK4が語られる可能性があるのかな、とも思います。

 その理由は、天吾の書いた小説の詳細がこの物語の中では明らかにされていないからです。また、BOOK3の最後で青豆は、高速道路から見えるエッソのタイガーの姿が反転していることに気がつきます。これは青豆と天吾が戻ってきた場所が1984年ではなく、第三の世界であることを暗示しており、今後新たな展開が有り得る事を示しています。このように続きの物語が語られる含みを残しつつ、この小説はとりあえずBOOK3で終わります。

 ただ、新たな「大きな物語」が語られる必要がある時というのは、現実世界が「大きな歪んだ物語」に覆われた時なのではないかと思われますので、続編は本当は無い方が良いのかもしれませんが。

 

(補足:1984年から1Q84年に行くタイミングと、二つの月が見えるタイミングについて)

 

 この小説で1984年の元々の住人は青豆と天吾だけだと思われます。青豆は1984年から高速道路の非常階段を通って1Q84年に行き、最後に1Q84年から脱出します。

 その他の登場人物は、基本的には元々1Q84年の住人のはずです。彼らは最初から『さきがけ』の存在を知っています。しかし、天吾に関しては『さきがけ』のリーダーが「『君たち(筆者注:青豆と天吾)は入るべくしてこの世界(筆者注:1Q84年)に足を踏み入れたのだ』」(BOOK2 第11章)、「『君たちは言うなれば、同じ列車でこの世界に運び込まれてきた』」(BOOK2 第13章)と言っていますので、もともと1984年の人間なのだと思われます。

 

 BOOK2 第22章では、天吾はふかえりに「『具体的なポイントはまだ特定できないけどおそらくその前後(筆者注:『空気さなぎ』の書き直しをした前後)から僕はおそらくこの月が二つある世界に入り込んだのだろう。今までそれを見過ごしてきただけだ。夜中に空を見上げることが一度もなかったから、月の数が増えていることに気づかなかった。きっとそうだね?』」と聞いています。これに対して、ふかえりの返事はありません。

 この天吾の推測の前半(月が二つある世界に入り込んだ)は正しく、後半(今までそれを見過ごしてきただけだ。)はおそらく間違っています。二つの月のある1Q84年の世界に入り込んでも、二つの月が見えるとは限りません。天吾が二つの月が見えるようになるには、別のきっかけがあったはずです。

 

 それでは、天吾が1Q84年に足を踏み入れたのかタイミングはいつなのでしょうか?

 天吾は二股尾で戎野から話をされた時に、『さきがけ』という「名前には聞き覚えがある」にも関わらず、「どこでそれを耳にしたか思い出せ」ず、「記憶をたどることができ」ません。『あけぼの』についても「記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがな」く、「なぜかその詳細を思い出すことができ」ません。(BOOK1 第10章)

 

 仮説ですが、上記のようなことが天吾に起こったのは、中央線に乗る前の天吾は1984年の住人で、ふかえりに二俣尾へ手を引かれて連れて行かれることによって1Q84年世界に連れてこられたのだ、ということが考えられます。

 けれども、1984年の住人の天吾は本当は『さきがけ』も『あけぼの』も知らないはずです。これは、中央線で手を握った時にふかえりが天吾に、『さきがけ』も『あけぼの』の存在を初めから知っているかのような暗示をかけたということなのでしょうかね。しかし、そもそもふかえりに暗示をかける能力があるのか?という話になりますが、天吾が1Q84年に入り込むタイミングがこの時点以外には考えれらません。

 

 前述したように1Q84年の世界の住人になったからといって、この小説の登場人物たちは最初から月が二つ見えている訳ではありません。作中でもリーダーが「『しかしここにいるすべての人に二つの月が見えるわけではない』」(BOOK2 第13章)と言っています。『空気さなぎ』には、自分の「『ドウタが目覚めたときには、空の月が二つになる』」と書かれています。(BOOK2 第19章)自分のドウタが目覚めていない人間は1Q84年の世界の住人であっても二つの月が見えません。

 

 登場人物たちが二つの月が見えるようになるきっかけは以下のようだと考えられます。

 

 天吾は、雷の夜にふかえりと交わった後に2つの月が見えるようになります。(BOOK2 第18章)

 牛河は、ふかえりにファインダーを通して見つめられた後に見えるようになったと思われます。(BOOK3 第16章)

 青豆は、BOOK1第15章のあゆみが青豆のアパートに泊まりに来た時が、二つの月を見た最初です。

 しかし、見る機会が無かっただけで非常階段を降りて1Q84年に最初に来た時から実際には見えているのではないかとも思われます。ただ、それだと青豆が1Q84年に来てから何日も経っているのに月が二つあるのに気が付かなかったことになります。これはちょっと不自然かもしれませんね。とすると、あゆみが泊まりに来たことが環のことを思い出させ、それが彼女のドウタを目覚めさせた?うーん、これもなんか弱い感じがします。どちらが正解かはちょっとよくわかりません、微妙ですね。

 

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